現実を見ることができない物書きと精神科医-『東電OL殺人事件』を斬る 6-[ビバノン循環湯 64](松沢呉一)-7,314文字
「偶然に意味を見出す無意味-『東電OL殺人事件』を斬る 3」
「闇としか表現できない物書きの限界-『東電OL殺人事件』を斬る 4」
「『自然』を『奇っ怪』に見せかける詐術-『東電OL殺人事件』を斬る 5」
の続きです。
なぜこの程度のこともわからないのか
街娼の実態を知らない佐野氏は、事件の見方にも大いにバイアスを加えている。被害者が発見されたアパートの部屋はその前から被害者が商売で利用し、その当日も同様だったと思われるのだが、著者はそのことに疑問を呈している。
あたりには華美な「愛の空間」が妍を競いあうように密集しているというのに、なぜ、泰子はこんなうす暗く不潔な場所を「愛の空間」に しなければならなかったのか。私はここに立って、そうせざるを得なかった泰子の心の闇の深さがあらためて伝わってくるような気がした。(P401)
喜寿荘の一〇一号室は事件前年の九六年十月頃から空室となっており、それ以降、浮浪者が住みつかぬよう、部屋の電気も水道も切られている。
そんな真っ暗な部屋のなかで、果たしてセックスするかという点も疑問である。(P46)
華美な愛の空間とはラブホテルのことだが、ラブホテルがあろうともアパートを利用するでしょ、そりゃ。金がかからないんだから。それだけのことなのに、またまた「心の闇」を持ちだして、「現実世界からはるかに突き抜けた高みにいた」などとするのは、現実世界のほんの一部しか見たこともないまま、それ以外の現実が当たり前に存在し、自分以外の多くの人がその現実を体験していることを想像したこともない人の戯れ言である。
暗闇でセックスする人がいるのかどうかを知りたければ、深夜の公園に行けばよろしい。佐野氏は、こういったカップルたちにも、心の闇を見ないではいられないだろうか。
私は大学を出てすぐ渋谷に本社がある会社に勤めたのだが、外から入れる非常階段で事をいたすカップルが問題になっていた。それくらいは無視すればいいとしても、非常階段に出る扉に鍵をかけ忘れると会社の中にまで入り込んでくるのだ。
今はもうなくなったが、この会社から徒歩二分もかからないような場所にラブホテルがあった。そこに行けばいいわけだが、ラブホテル代をけちりたい人たち、ラブホテルに入る前に十分気持ちを高めておきたい人たちがいる。また、週末だと、どこのラブホも満員で入れないことも珍しくない。
空き部屋を探しているうちに、客に逃げられることもあることを考えるなら、いつでも空いている場所が確保できたことは、彼女にとってはまたとない幸運だったろう。しかも、「遊んでってよ。ホテル代、いらないからさ」という誘い言葉も使えるのだ。
街娼や客引きは、ケチる客に宿代分をダンピングすることがよくある。
「一時間二万円でどう?」
「そんな金ないよ」
「だったら、ホテル代、出すからさ」
といった具合。電気が使えなくても、こういうアパートを見つけたなら、街娼は利用する。まったく自然なことである。180度違う見方ができるのは、やはり佐野氏が街娼のことをまったく知らず、調べようともしなかったためだと言っていいだろう。あるいはそうした方が「受ける」「売れる」という物書きの商売気か。
※渋谷もリゾート系ラブホがずいぶん増えた。すでにピークは終えていると思うが。ラブホのトレンドについては「パセラが作り出したトレンド-歌舞伎町のラブホテル全制覇 3」参照。
普通のことを異常に仕立てる異常
先の引用文に戻って、「井の頭線の終電車のなかで人目も気にせず菓子パンをむさぼり、円山町の路地裏でコートの裾をたくしあげて小便をする姿を何度も目撃されている」という一文もまたことさらにおかしなこととする必要はあるまい。
佐野氏がすでに被害者が異常であると繰り返し読者に思わせているために、この一文もすんなりと読んでしまう読者も相当数いるだろうが、街娼という職業、あるいは売春という職業総体を知らない人でも、この一文をよくよく検討すれば、佐野氏が被害者をなんとしても異常者に仕立て上げたいと熱望していることがわかるだ ろう。
さきいかやおでんじゃ腹が膨れず、電車の中でパンを食うことくらいあろうさ。そんなに奇矯か、そんなに堕落か。私だって人目を気にせ ず、歩きながら、あるいは道ばたにしゃがみこんでハンバーガーをむさぼり食うことがある。さすがに臭いのするものは電車の中で食わないが、腹が減って、取材の帰りに電車の中でおにぎりや菓子パンを食うこともある。
と書いていて思い出した。つい数週間前、馴染みの風俗嬢にアイスクリームを土産に買っていったら、彼女はその日風邪をひいて欠勤していたため、帰りの電車でアイスクリームを食べた。しかも、彼女の分と私の分と、二つ立て続けにだ。捨てるのはもったいなく、うちまでもって帰ると溶けてしまうためである。四十代のオヤジが電車の中で続けてアイスクリームを二つ食うのは奇異なことかもしれないが、いいじゃねえか、ほっとけ。
(残り 5495文字/全文: 7641文字)
この記事の続きは会員限定です。入会をご検討の方は「ウェブマガジンのご案内」をクリックして内容をご確認ください。
ユーザー登録と購読手続が完了するとお読みいただけます。
会員の方は、ログインしてください。
外部サービスアカウントでログイン
Twitterログイン機能終了のお知らせ
Facebookログイン機能終了のお知らせ