松沢呉一のビバノン・ライフ

クラウドファンディングを検証する 4-厄介な「レイシストカウンター」批判 9(松沢呉一) -2,658文字-

「クラウドファンディングを検証する1」

「クラウドファンディングを検証する2」

「クラウドファンディングを検証する3」

の続きです。これでこのシリーズは終わりですが、クラウドファンディングについて、また、「レイシストカウンター」についてはさらに続きます

 

クラウドファンディングの負の側面が浮上

 

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—今回の騒動はクラウドファンディングという方法にも影響を与えるかもしれないですよね。

「そう思います。今まで映画の資金集めは、極端な言い方をすると顔が見える範囲、話が通じる範囲でなされてきました。カンパでもスポンサーでもそうです。制作者はその人たちの顔を思い描きながら金を使う。ただ金を出すだけではなく、さまざまな形で映画に関わり、上映活動をしたり、宣伝を手伝ったりもする。それこそ皆で映画を作る感覚があったんだと思います。その分、制作側からすると、面倒臭さもあって、映画の内容にも口出しをする人もいる」

—「金を出すから、オレの愛人を映画に出してくれ」みたいな。

「そうそう(笑)。それに引き換え、クラウドファンディングは少額を多数から集めるという発想なので、関係が薄いじゃないですか。出した側は文句をつけないので、責任感も生じにくいと思うんですよ。そこに責任を感じない人たちにとっては」

—映クラウドファンディングで資金調達!  アイデアだけで1000万円!画の制作費で3千円を出した程度だと、映画が完成しなくても怒る気にはなれない。

「ですよね。3千円じゃ、内容にも口出しできないでしょ。面倒が少なくて金が集まるのはいいことのようですけど、古くから映画に関わってきた人たちは、クラウドファンディングには簡単には飛びつかないと思いますよ(追記参照)。やるとしても、相当悩むと思います。どことなくいかがわしさを感じてしまうと言いますか、軽さを感じてしまうと言いますか、それだけで映画のハクがなくなると言いますか。投資としてのクラウドファンディングだったらまだわかるんですけどね。利益が出たら投資者にバックするような方法です。それにしても、私だったら、不特定多数の人に呼びかけるようなことはしませんけど」

 

 

クラウドファンディングの覚束なさ

 

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クラウドファンディングについての夢物語ばかりが語られる中では、彼が言う躊躇は見落とされがちです。しかし、本当はクラウドファンディングこそ責任を感じるものなのではないか。

 

「その躊躇をきれいに言葉で説明するのは難しいんですけど、顔が見えている人に金をもらうことの責任とは違う責任を感じていいはずです。どこの誰かもわからないと、その責任の取り方もわかりにくいので、顔が見えない人には金をもらえない感覚が私にはあります」

—今まであまり考えたことがなかったですけど、たしかに自分が集めることを考えると、とらえどころのない責任感みたいなものが生じますね。

「クラウドファンディンIMG_7682グをやる人は、“他に方法がなくてやむなく”という人たちもいるし、それで映画界が活性化するのはいいことですから、それ自体を否定はしないんですけど、金を出してもらうことの痛みみたいなものを感じられない人はやるべきではないと思いますよ」

—お金をもらうというより預かっている感覚ですよね。その人たちができないことを代わりに自分がやる感覚。

「通常はそういう感覚があるんだと思うんですけど、“金さえ集まればいいんだ”と割り切る人たちが、一攫千金の夢物語を信じて、映画が好きでもないのに、話題になるテーマの映画をネタにクラウドファンディングをやる可能性は十分にあると思います。わたなべりんたろうさんがどうなのかはわからないですけど、『レイシストカウンター』は、まさにそのリスクがあることを見せてくれました。今回の騒動は映画のクラウドファンディングを停滞させかねないんじゃないかな」

 

 

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