松沢呉一のビバノン・ライフ

戦後、男娼が街に立つまで-ノガミ旅行記 [7]-(松沢呉一)-6,710文字-

「戦前戦後のステッキガール-ノガミ旅行記 [6]」の続きです。この回も『闇の女たち』との重複があります。ご了承ください。

 

 

 

 

陰間茶屋の伝統は今も生きている

 

vivanon_sentence女の街娼のみならず、ノガミは男娼にとっても、男性同性愛者にとっても歴史ある場所だ。

カストリ雑誌でも、オカマあるいはカゲマとして男娼はよく登場していて、その登場数はノガミの女のパンパンを凌ぐほど(陰間とは江戸時代の男娼のこと。江戸の各地に男を買う陰間茶屋があった)。時には奇妙な存在として、時には哀れな存在として描かれ、また時には忌むべき存在として警告とともに描かれている。ニューハープなんて言葉のない時代には珍しい存在だったわけだが、上野に行けば確実に出会えた。

ご存じのように、日本では男娼の歴史が古い。江戸時代に栄えた男娼茶屋である陰間茶屋が最も多かったのが上野にほど近い湯島だった。湯島天神境内には八軒の陰間茶屋があり、平賀源内も利用していたと言われる。天保の改革などで禁令を出されて他の地域が壊滅する中、湯島の陰間茶屋は明治維新まで残っていた。

なぜ湯島だったかと言えば、上野寛永寺を始めとして、僧侶たちが利用したためで、彼らの加護があって湯島の陰間茶屋だけが生き延びた(詳しくは岩田準一著/一九七三年・昭和四八年/私家版『本朝男色考』参照のこと)。

その一方、日本の演劇史は、売春史の中に位置づけられるほど両者の関係は深い。近代になってからでも、旅役者はファンの女に金銭で一夜を提供することが半ば公然と行われ、女形の役者が男の相手をすることもよくあった。そのため、芝居小屋の多かった浅草は、戦前から男色の街として知られていて、食いつめた役者が外に立つこともあり、昭和初期には、男娼の巣窟もあったらしい。

カストリ雑誌に出ている男娼の告白めいた記事でも、元は女形の役者と語っているものがよくある。単に男が好きというよりも、女形と言った方が耳障りがいいためとも思えるが、旧世代の男娼に役者を筆頭とした芸能関係者上りが多かったことは事実のよう。これ以外では、軍隊で男色を覚えたというものもある。

敗戦によって芝居では食えなくなり、かといってオカマバーなりゲイバーは当時まだなく、やむなく街角に立つようになるわけだが、その際に、浅草から近い上野が選択されたのはいたって自然だろうし、女が商売しやすいのなら、男娼にとっても事情は同じだ。

 

 

の記述

 

vivanon_sentence角達也著『男娼の森』は小説というスタイルをとりながら、相当まで事実を踏まえていると思われる。

主人公の「お照」も役者出身ということになっている。十六の時に浅草で浮浪してた照夫は、剣劇の一座に拾われた。座長は女形出身で、女形時代は男の客の夜の供をしていた。この座長の寵愛を受けて照夫は大抜擢されて人気を博すが、空襲で劇団は散り散りとなる。戦後、剣劇は禁止されて、照夫の出る幕は既になく、曲折あって、大阪に行った女形の知り合いを訪ねる。ところが、この女形はすっかり男娼となっていて、失望した照夫は東京に戻って、遂に「お照」となった。

はっきりと年が書かれていないが、「お照」がノガミにやってきたのは一九四六年(昭和二一年)の暮れのことのようだ。その頃には既に何人かの男娼が仕事をしていた。

 

 

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