「シェアさせてください」の不快さ-老害シリーズ・ロック編 2(松沢呉一) -2,668文字-
「カルメン・マキの世界」の続きです。
マナーではないものをマナーとする傲慢
ここまでの話でも、「古い世代が生きてきた時代の枠組み」と「若い世代が生きている枠組み」の違いがわかろうかと思います。
単純に「昔より今の方が著作権の知識が浸透した」とは言えない部分もありますが、一般に昔よりも今の方が知識はあるし、なければならない時代になってきてます。その上で「どう著作物をスムーズに利用するのか」を考える。とりわけネット上では機能や規約によって、スムーズに利用することができるようにもなっており、その前提を書き換えないまま、思い込みをふりかざしたって相手にされない。
「どこの国でも、カバーする場合はオリジナルの歌手に挨拶をする」という間違った思い込みが通用した時代に生きてきたらしき人が、今もそれが通用すると思って無理強いしようとしたら、反発されるのは当然。それに反発する方ではなく、押し付ける方が間違っています。
マナーではないものをそうであるかのように見せかけつつ、人に押し付ける例はよくあります。
「シェアさせてください」の気持ち悪さ
このべたつく気持ち悪さは、Facebookで「シェアさせてください」と言ってくる人たちに似てます。気持ち悪さの程度が全然違いますが、質は似ている。
この言葉を不快と感じる人たちが多いことはしばしば指摘されている通り。私も不快です。
いちいちそんなことを言ってくる意味がさっぱりわからない。「どこの誰が書いたのか」のソースを添えて、すぐに辿れるようにすることでフェアユースをスムーズに実践できる機能を搭載していることが台無しです。また、コメント欄でのやりとりのノイズになり、あとで読み返す時も邪魔です。
「シェアしました」という報告も意味がない。誰かがシェアしたらそれも表示され、本人には通知されるんですから。
まして許諾を求めるのは相手に返答を求めることですから、迷惑この上ない。シェアされるのがイヤだったら、Facebookを使わないでしょう。とくに一般公開の設定で投稿している人は。「イヤです」と言うわけがないし、もし断られたらシェアしないんか。
どこの誰か知らん人に、いちいち「どうぞシェアしてください」とか「あんたはダメ」とか返事を求めることの迷惑に気づかない鈍感さ、図々しさ、頭の悪さ。
数日前にもこれに関するやりとりがFacebookであったのですが、この不快さがわからない人が「許諾を得る意図ではない」と説明してました。ただの挨拶なのです。なーるほど。
いつの間にか使う人がいなくなりましたが、Facebookのpokeと同じです。「シェアさせてください」にはその言葉通りの目的があるのではなく、「あなたのことを見てますよ」「私のことも意識してね」「元気ですか?」「私も元気ですよ」といった意味しかない。pokeはそのための機能だったのですから、これを使うのはいいとして、シェアは挨拶じゃねえぞ。
すべてがそうではないでしょうが、この説明は納得しやすい。たしかに「シェアさせてください」「シェアします」「シェアしました」はオリジナルの投稿ではなく、シェアした人になされます。許諾を出せる資格のある人ではない。
投稿に対する感想を書くのは面倒。しかし、「シェアさせてください」であれば頭を使わなくていい。怠け者かつ頭の悪い人たちの挨拶なのです。
手続を省略して、スムーズに情報の共有ができる仕組みをわざわざ作っているのに、怠惰な挨拶で無化してしまう人々。
こういう人たちにとってはシェアそのものが挨拶代わりになっていそうです。だから、内容はどうでもよくて、ロクでもないものでもシェアをするし、中を読みもしないでシェアをして、デマの拡散に寄与してしまうのだと思います。
ホントかどうか知らないですが、無断でシェアすると怒る人がいるらしいですね。カルメン・マキって人じゃなかったですか?
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