老化とは社会が見えなくなること-老害シリーズ・ロック編 5(松沢呉一) -2,478文字-
「村社会の崩壊と新しいルール-老害シリーズ・ロック編 4」の続きです。
健脚健在
すでに書いたように、ソウルに着いた初日に、自分がどこにいるのかもわからないまま、5時間歩き回っているのですが、今なお健脚でありまして、5時間程度歩いても、さして支障はない。
ただし、この時履いていたスニーカーはサイズが少し大きくて、長時間歩くには適していないため、翌日、路上でおばちゃんから安いスニーカーを買いました。これは足にピッタリで、2日目は7時間歩けたのですが、帰る頃には中敷きが剥がれ、本体と底の接着剥がれました。歩き過ぎ。
なお、右の写真は市場の靴屋です。ここで買ったんじゃないんですけど、あまりにアバウトな売り方に感動しました。
値段はついてなくて、店の人は適当に値段を言って、交渉するのが定石らしい。次にソウルに行ったら、ここで買いたいと思います。
牛乳を飲めなくなる哀しみ
健脚自慢の私ですが、初日に泊まったホテルの前に小山があったので、翌日の早朝に散歩に行きました。頂上まで行ったらさすがにへばりました。
こういうことは国内でもよく体験します。駅に行きます。ホームに電車が入ってきたので、慌てて階段を駆け上がります。たったそれだれけのことで息ができないくらい苦しくて吐きそうになる。歩くことには強くても、使う筋肉が違うので、階段を駆け上がるとホントにキツい。
歳をとると、こういうことが体のあちこちで起きます。そうなるまで、そうなることをまったく知らないでいたのですが、歳をとると牛乳が飲めなくなるんですぜ。分解酵素が減って乳糖不耐症になるのです。
ちょっとだったら大丈夫ですが、がぶ飲みするとてきめんに下痢します。牛乳、好きだったのに。その代わりにヨーグルトドリンクを飲んでます。
つい最近のことですが、抗生物質を飲んだら手と足の痒みがひどく、下痢もしました。歳をとるとアレルギーも増えて、使えない薬が出てきてしまうらしい。
これまでできたことができなくなる。それが老化。しかし、それに意識がついていけていない。ついつい「このくらいは大丈夫」と思ってしまいます。
この過信が老化には必ずと言っていいほど付随する。
「体に対する評価」と「現実の体」とが乖離していくのですから、その調整をして、「もう階段は駆け上がるのはやめよう」、あるいは「これからでも体を鍛えよう」と考えるのが正しい対処です。
このように、体の変化は実感できるので、その調整は比較的容易です。しかし、これが意識内の事柄になると、そうはいかない。
変化する社会と変化できない個人のズレ
「コンドームの後始末」シリーズが顕著であるように、環境は知らないうちに変化していて、自分なりの判断でやっていると思えていることも、その環境に規定されています。
ここから人は逃れられない。世代で切るのは好きではないですけど、現にこうやって世代差は作られてしまう。社会が変化する限りは避けられないことです。
いかに主観として、その行動が正しくても、その前提を共有していない世代には通じない。しかし、通じないことがわからなくなる。これが老化のわかりづらい側面です。怖いっすね。
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