松沢呉一のビバノン・ライフ

「週刊文春」批判は成立しない-アウティング再考 2(松沢呉一) -2,584文字-

※9月10日号が出てしまいましたが、まだ読んでないので、以下は9月3日号の範囲で論じています。

 

武藤貴也議員の報道とACT UP-アウティング再考 1」の続きです。

 

 

「週刊文春」の記事を批判することは可能か

 

vivanon_sentence「週刊文春」の記事に対して、報じること自体を批判している人たちもいますが、それは無理ってもんです。

ネットに公開された部分だけでは判断しにくいかもしれないですが、「週刊文春」に掲載された記事は、同性愛をことさらに貶める内容は含まれていません。

 

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LINEでの一対一の関係を前提としたやりとりにある「奴隷」という言葉をクローズアップしている見出しはたしかに扇情的であり、こういうやりとりでの言葉を現実の言葉にすり替えられたらたまったものではない。

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しかし、奴隷云々は同性愛者であることの問題ではありません。この見出しでは一人称が「僕」であることから、相手は男であろうことが推測できるだけです。そこには配慮があり、記事を読めば「奴隷」という言葉はすでに関係が深まって以降のシャレのようなものだと理解できます。セックスを重ねてきた相手にはそんくらい言うこともありましょう。

記事では、男同士の売買春は法に触れないことを踏まえ(売春防止法の対象ではないためです)、相手が19歳という未成年であり、議員会館や議員宿舎に呼んでいたことについて倫理に反するのではないかという指摘がなされているだけで、同性愛についての批判的、否定的な指摘はとくに見られません。

たとえばヘテロの議員であれば、出会い系サイトで知り合った19歳の女性を議員会館に呼んだり、議員宿舎に呼んでいたことを報じられる可能性は十分にあります。金銭のやりとりがなかったとしても、つまり法的に問題がなくても、「出会い系で知り合った19歳の未成年女性を議員宿舎に連れ込んでいた!!」と報じられる可能性はあるでしょう。公私混同であり、政治家は決してやってはならないことす。ゲイでも同じ。

この場合に相手が男であることを知らしめる必要はないという意見もあるかもしれないですが、相手が男か女かで法的な意味が違ってくるのですから、事実関係を正確に記述するためには、男女の別は明記せざるを得ないかと思います。

 

 

「週刊文春」を批判する論拠を検討する

 

vivanon_sentence記事を読めば、「週刊文春」の報道を批判することは相当に難しいのだと思うのですが、現に批判する人たちがいて、私の周辺でも、それに賛同する人たちがいました。

なぜ公人であってさえ、同性愛者であることを公開してはいけないと考える人たちがいるのか。理由は大きくふたつありましょう。

ひとつは「武藤議員自身が不当なバッシングを受ける」ということです。「未成年を買春した」点は倫理に抵触する可能性があるとしても、「同性愛者である」という非難がこれに加わることは不当であるという考えです。

もうひとつは「これを契機に同性愛者全体へのバッシングがなされる」ということです。「同性愛者だから、武藤貴也のような呆れた人間になるのだ」「同性愛者は武藤貴也のような人」といった偏見を生み、ホモフォビアを強化しかねないと危惧するものです。

これらの考え方は、一見、同性愛者の立場をとっているようでありながら、よくよく考えると微妙な点を含みます。実のところ、これも、「ACT UP&TALK OUT」に先立つテーマ出しの際に出ていたことです。

 

 

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