松沢呉一のビバノン・ライフ

遊女・花魁・お職-「吉原炎上」間違い探し 5[ビバノン循環湯 79] (松沢呉一) -3,108文字-

妓楼のランク-「吉原炎上」間違い探し 4」の続きです。

 

 

 

久野と花魁道中

 

vivanon_sentence原作でも、ドラマでも、主人公の久野は「花魁道中」をやっている。これはもともと揚屋(あげや)と呼ばれる茶屋が機能していた時代に日常的に行われていたものである。

客は揚屋に来て、そこに正装した遊女たちが出かけていって客と会う。これが本来の花魁道中であり、妓楼によってもスタイルが違っていた。

DSCN5012やがてこれが形骸化して、妓楼や女たちの見栄と、人集めのためのイベントとして行われていくようになる。とくに明治以降は、吉原を代表する店の、店を代表する売れっ子が担っていく。それを久野がやったのだから、吉原の頂点とも言えるような存在だったことがわかる。

ただし、原作にある明治25年の花魁道中についての記録が見つからない。明治以降、花魁道中は数えるほどしか行われておらず、わかった範囲で言えば、明治3年に行われてから、明治21年までは行われていない。『花街風俗志』(明治39年刊)によると、明治21年3月に1週間ほど行われた花魁道中は、久々の復活とあって、立錐の余地がないほどに人が集まったとある。

この翌年にも花魁道中が行われている。この2回の花魁道中をやったのはいずれも角海老の娼妓である。この時点で、久野は中米にまだいたと思われ、久野の前に、角海老にいた娼妓たちが花魁道中をやったのだろう。

この次の花魁道中は明治28年になってしまい、これは彦太郎という店の女たちが総出でやったそうだ。総勢36人。すでに久野は吉原にはいないので、これらの花魁道中と久野は無関係だとしか思えない。

記録にない花魁道中だったのかもしれないが、ここがどうもすっきりしない。時代を20年ずらしているテレビドラマの方ははなっから史実なんてどうでもいいのだろうから、その時代に花魁道中がありえたのかどうか検討さえしていないだろう。

※写真は大正2年の花魁道中。前掲『全国遊廓案内』より

 

 

江戸の花魁・明治の花魁

 

vivanon_sentence花魁道中の「花魁」はもともとランクの高い遊女のことを意味する。ここでのランクは前回説明した店のランクで決定し、大店の女たちが花魁になる。花魁道中は誰でもできるものではなかったわけだ。

遊女」というのは、ランクを問わず、遊廓の女たちを意味する。これ以外に古い言葉として「遊妓」「妓女」「妓郎」といった言葉もよく使用されている。

 

 

next_vivanon

(残り 2207文字/全文: 3234文字)

ユーザー登録と購読手続が完了するとお読みいただけます。

ウェブマガジンのご案内

会員の方は、ログインしてください。

« 次の記事
前の記事 »

ページ先頭へ