妓楼の調度と娼妓の衣装-「吉原炎上」間違い探し 9[ビバノン循環湯 83] (松沢呉一) -3,079文字-
「写真見世の時代へ-「吉原炎上」間違い探し 8」の続きです。
角海老の時計塔はなぜ登場しなかったのか
娼妓たちの生活ぶりについては、のちのち詳しくやっていくとして、原作に描かれている吉原の様子と、ドラマとはずいぶん印象が違う。見た目の印象も違うのである。
吉原の石版画や絵葉書にしばしば登場するものとして時計塔がある。大門から見えるところにあったもので、当時の吉原を象徴するものと言っていいだろう。この時計塔があったのは、久野がいた角海老であり、完成したのは明治十七年(一九八四)、そして、明治四十四年の大火で消失。
※うちに写真や絵がいろいろあるはずなのだが、こんな石版画しか出て来なかった。右手奥に辛うじて時計塔が見えている。もっとはっきりしたのを見たい人は、この辺を見ておいてください。
時計塔が吉原にあった意味
札幌の時計台(札幌農学校演武場)が建築されたのは明治十一年。銀座和光の時計塔が建築されたのは明治二十八年。この時代、明治のハイカラ建築の代表として、時計台、時計塔が建設され、吉原だけじゃなく、洲崎遊廓でも時計塔が建造されて、名物となった。
当然、原作ではこの時計塔が描かれているが、ドラマでは出て来ない。私が見逃しただけかもしれないし、出て来なかったとしてもたまたまかもしれない。そんなセットを造る予算がなかった可能性も当然あろうが、ここにも意図があるのではないかと疑える。
吉原は、伝統や格式を重んじつつ、時代の先端であり続けた場所でもある。江戸時代は、流行を発信する場所であり、流行を仕掛けるために吉原で商品を配るようなことまであったと言う。今で言えば女子高生にサンプルを配るようなものか。
時計塔だけじゃなく、原作にある絵には、建物の入口や廊下に洋風のランプがある。洋風のバルコニーも描かれ、さらには主人公と客がベッドで寝ている絵まで出てくる。
明治二十年代の吉原にこんなものが導入されていたことに、私自身、驚いた。このシリーズの冒頭に書いたように、原作はずいぶん前に読んでいたのだが、当時はそこまで読み込む能力がなかったので、今回読み直して驚いたのである。
こういった洋風の調度が導入されるのは、早くても明治四十四年の大火以降、あるいは関東大震災以降のことだとばかり思っていたが、ベッド自体がまだ珍しかった時代には、豪華でシャレた演出として導入する意味があったのだろう。
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