松沢呉一のビバノン・ライフ

扉のない大門をどうやって閉めたのか-「吉原炎上」間違い探し 10[ビバノン循環湯 84] (松沢呉一) -3,291文字-

妓楼の調度と娼妓の衣装-「吉原炎上」間違い探し 9」の続きです。

 

 

 

時代を特定する手がかり

 

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吉原をとらえた絵や写真がいつのものなのかを同定するためには、前出の時計台と並ぶ要素がいくつかある。

まずは写真そのもの、印刷そのもの。どういった印画紙にプリントされているのか、どういう印刷方法なのか。使用済みの絵葉書であれば消印や切手によって時期がわかることもある。切手は長い期間使われたものがあるので、あまり役に立たなかったりもするのだが、大雑把な期間は特定できる。また、文面に日付が書き込まれていることもある。

吉原の写真や絵で言えば時計塔、中央の柳桜の並木、そして門の形IMG_5518である。

ドラマ「吉原炎上」で気になるのが大門である。今は交差点の名前でしかなく、その脇に何代目かの見返り柳が残っているだけだが、遊廓時代の吉原には門があった。

「大門」は一般に「だいもん」と読み、他の遊廓においても「だいもん」と読むことが多いのだが、吉原や洲崎では「おおもん」である。原作には「だいもん」のルビがあって、編集者がルビをつけた際に間違えたのだろう。

ドラマに出てくる大門は読みではなく、形が間違っている可能性がある。ドラマでは門の上にアーチがかかっているのだが、ドラマの設定である時代にはこのアーチは存在しなかったのだと思われる。

※そうは見えないだろうが、写真は見返り柳。枯れているのか、枝を落としただけなのか不明。

 

 

吉原大門の変遷

 

vivanon_sentence吉原大門は、江戸時代は木造の門だったのだが、明治四年の火災で焼失、明治十四年に鉄の門に建て替えられる。上にランプがつき、新しいものを積極的に取り入れた吉原らしい。この門には吉原の常連だった福地桜痴の書による「春夢正濃満街櫻雲」と「秋信先通両行燈影」という文字が彫られていた(漢詩の作者は永瀬正吉)。

この門は大正十二年の関東大震災によって失われてしまうが、この時点では、ドラマに出て来るアーチがつけられていた。震災で焼けて溶けたアーチの写真も残っている。

つまり、鉄の門はそのままで、ある段階で、上にアーチが加えられていたのである。江戸時代でも、木造で鳥居状になっていた門があるのだが、この形のアーチは明治以降にはなく、鉄のアーチは江戸期にはない。

関東大震災で焼けたアーチの上には女神像があしらわれており、これも洋風のものを積極的に取り入れた時代を象徴しよう。これがドラマに出てくる門だ。

明治二十年代が舞台の原作に描かれた門ではアーチはなく、いつこの形になったのか。

吉原大門の変遷については以前調べたことがあって、その時は十分には調べ切れず、はっきりとはわからなかったのだが、改めて調べてみたところ、明治三六年刊の葛城天華・古沢古堂著『吉原遊廓の裏面』(大学館)に大門の写真が出ていて、これにはアーチがない。

国会図書館にあるものを探したところ、明治四二年刊の『最新東京名所写真帖』にはアーチの門が写っている(上の写真)。明治三六年以降、明治四二年までに作られたようである。したがって、ドラマにこのアーチの門があるのは正しいということになる。

いずれにせよ、明治以降の吉原大門には扉などなく、単に柱があるだけか、アーチがあるだけだった。江戸時代には扉がついていた時期もあるのだが、これもほとんど閉じられることはなかったよう。

 

 

門をめぐるデマ

 

vivanon_sentence古い本を読んでいると、「大門を閉める」という表現に出くわすことがある。これは何かというと、吉原の引手茶屋を貸し切り状態にすることで、「占める」というのと引っかけた言葉。明治以降、大門を閉めたのは、福地桜痴こと福地源一郎ただ一人と言われる。

扉がないのだから、大門は閉じようにも閉じられなかったにもかかわらず、関東大震災の時に、大門が閉じられて、娼妓たちが多数焼け死んだとのデマを平然と書いている人たちがいる。どうやったら、扉のない門を閉じられるのだろう。地震で慌てふためいた人々が逃げ惑う中、急造で、あの大きな門に扉を作ったというのだろうか。

この話の出処ははっきりしている。

 

 

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