震災に乗じてデマを流した人々-「吉原炎上」間違い探し 11[ビバノン循環湯 85] (松沢呉一) -3,070文字-
「扉のない大門をどうやって閉めたのか-「吉原炎上」間違い探し 10」の続きです。
デマ元は矯風会だった
扉のない吉原大門の扉を閉じて娼妓が多数亡くなったとの呆れたデマを流したのは一体誰であったのか。
『新吉原遊廓略史』の転載文では、座談会参加者のフルネームがわからないのだが、「守屋」は守屋東(あずま)、「山川」は山川菊栄、「山田」は山田わか、「平塚」は平塚らいてうだろう。「島中」は後に中央公論社社長に就任した嶋中雄作と思われ、この座談会の司会だったのであろう(この時は「婦人公論」編集長。本姓は嶋中でなく島中)。錚々たるメンバーである。この錚々たるメンバーがデマを拡散した。
これに対して、吉原をよく知っていた久保田万太郎は「大門をあけたり締めたり出来るものだと思っている。とんだ『明烏』の若旦那だ」と一蹴して、大門について、それ以上詳しいことを書いていない。「明烏」は落語の演目で、遊廓を知らないことを笑ったもの。当時の吉原に行ったことのある人ならこれだけで「その通り」と納得する話だったわけだ。
あともう少しで関東大震災から百年を迎えようという今の時代でも確認ができることをこの時代に生きていた彼らは確認をする気もない。門に扉があったのだという思い込みを疑わず、次々と悪意の想像を広げていく。
もっぱらデマを広げていくのは、守屋という人物で、これが守屋東であることに疑いがなくなる。というのも、彼女は矯風会のメンバーなのである。神の名の元に見てきたようなウソを平気で言う。これが矢島楫子の代から引き継がれた矯風会の伝統だ。
これに対して、嶋中雄作(たぶん)は「門を締めて明けなかったというのは事実ですか」とさすがに疑問を口にするが、守屋は「あの焼跡をみますと明けてありますね」とまるで答えになっていないことを言っている。
この守屋という人物は、焼け跡を見に行っており(それも怪しむしかないわけだが)、「明けてありますね」などと言っている。その時点で扉を閉めていないことを確認しているわけだ。つまり、「門を閉めた」という証言にはなんの根拠もない。ただの妄想、ただのデマなのだ。
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