松沢呉一のビバノン・ライフ

間引きが人口増加を抑制した?-「吉原炎上」間違い探し 16[ビバノン循環湯 90] (松沢呉一) -3,410文字-

娼妓の避妊-「吉原炎上」間違い探し 15」の続きです。

 

 

 

薬研掘の女医者

 

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前回書いたような複数の避妊法を実践していたところで完全に妊娠を避けることはできないし、やるべきことを疎かにするのがいるので、どうしたって妊娠する娼妓が出てきてしまう。この場合は堕胎をしていた。

野蛮とも言えるが、この時代なりに合理的な方法によって堕ろしていたのである。これは娼妓だけのことではない。むしろなんの避妊もしていなかった一般の人たちこそが堕胎をやっていた。

江戸時代は「女医者」「中条流(中條流)」と呼ばれる医者がいた。女医のことではなく、婦人科の医者のこと。明治時代には「女医者」というタイトルの本がよく出ており、多くは婦人科についての医学書だスクリーンショット 2016-01-01 10.10.22が、俗には堕胎専門医を指す。

古川柳にもよく出てくる言葉で、その場合はほとんどが堕胎医の意味だと思っていていい。薬研掘という言葉とともに使用されていることがあって、これは薬研掘に女医者がいたためだ。

遊女のみならず、武家の妻、未婚の娘などが広くこの堕胎医を利用していた。未婚の娘はわかるとして、武家の妻であれば、妊娠を喜んでもよさそうだが、不義密通によるものは都合が悪い。DNA鑑定などできない時代であっても、夫が長期で家を空けている時の子どもだとさすがにまずい。そのくらい不義密通がなされていたってことでもある。

正保年間には禁止もされ、以降たびたび禁止令が出たが、これは武家の不義密通の風潮を抑えるためだったと思われる。堕胎すること自体の罪悪視は強くはなく、女医者に対する刑罰も町内追放程度のものであり、かつ需要は絶えずあるため、女医者が消えることはなかった。

あとは主人の子を孕んだ下女である。妻にばれては都合が悪いし、相続の問題が生じかねないので、主人が金を出して堕ろさせたわけだ。

生むわけにはいかない遊女や、産んでも育てられない貧農の需要がもっとも高そうだが、高田義一郎著『世相表裏の医学的研究』(実業之日本社・昭和3年)によると、遊女の需要よりも一般の女性たちの需要の方がずっと高かったそうである。人数から言って当たり前ではあるのだが、それと同時に、遊女たちはすでに書いたような避妊の智恵があったため、想像するほどは多くなかったのだろう。また、医者にかかるまでもなく、自分たちで堕ろしていたためでもある。

人数から言っても、育てられない事情から言っても、貧農の妻たちの需要があってもよさそうだが、医者を呼ぶ金がないので、こちらも遊女同様に自分たちで堕ろしていた。

※図版は国会図書館で検索して出てきた秋琴女史著『袖珍女医者』(明治43年)。やはり婦人科の本である。

 

 

明治時代の堕胎法

 

vivanon_sentence近代に入ってからでも堕胎医は存在していたが、娼妓、あるいは貧農の女たちは、医者に頼らず、どうやって堕胎をしていたのか。これについては、昭和十年に柳田国男が指導して実施した「全国産育習俗調査」に詳しく出ている。この調査は、主に明治時代の習俗を知る世代に聞きとりをしたものであり、昭和十年の現実を知るための調査ではない。であるがゆえに、近代的な避妊方法がまったく知られていなかった時代にどうしていたかを知ることができる。

 

 

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