松沢呉一のビバノン・ライフ

娼妓は監禁されていたのか?-「吉原炎上」間違い探し 25-[ビバノン循環湯 99] (松沢呉一) -3,745文字-

心中する娼妓を医者が語る-「吉原炎上」間違い探し 24」の続きです。

 

 

 

中米の娼妓と客の心中

 

vivanon_sentence昭和に入ってからのものだが、雑誌「ギャング」(ギャング発行所)昭和7年6月号に、久野がいた吉原の妓楼「中米」の娼妓が心中した記事を見つけた。

ざっと以下のような内容。

同年四月六日、市外南綾瀬堀切の割烹旅館「清香園」で、投宿の男女の様子がおかしいので警戒をしていたところ、翌日九時になっても起きてこず、女中が中に 入った ら、女が絞殺されていて、男はいない。警察が男を追ったところ、同日午後八時、芝白金でカルモチンを飲んで苦悶している男を発見した。

女は吉原中米楼の伊藤はる(二三)。男は福永俊三(三三)。二人は以前からの馴染みで、はるは病気のため、一年働いても、千八百円の前借のうち二百円しか返 済でき ず、このことを俊三に相談したところ、俊三は妻子四人を抱えて失業した身であることを打ち明け、はるは俊三に同情して心中することに。

ところが、俊三の過去を洗ってみると、同じ神明の芸者と二度心中を図って、どちらも命拾いした「心中狂」であることが判明。今回もはるを殺したら、急に妻の顔を見たくなって浴衣姿に女のネッカチーフで顔を隠して帰宅、そのネッカチーフを妻にとがめられてカルモチンを服用して、芝の空き地で悶絶していた。

そもそも失業していながら吉原に遊びに行っていること自体がおかしくて、よっぽどの自堕落な生活をしていたか、精神的な疾患でもあったのかもしれない。

検死の際、彼女は丸坊主にカツラであったことがわかり、 「係官はどっちもどっちと目をパチクリ」と記事を結んでいるのだが、これは病気だったためなのではないか。甲状腺異常といった病気か、病気のために投与していた薬のためか。「どっちもどっち」はなかろう。

※該当号が見つからないので創刊号の表紙

 

 

娼妓が死を選ぶ時

 

vivanon_sentenceやはりこういう心中マニアが存在していたのである。それに付き合う娼妓もどうかしていると思うのだが、こちらは病気という事情があった。

すでに説明したように、東京では、やむを得ぬ事情があって借金が返済できない場合は、二年を限度に年季の延長が可能だった。このままではトータルで最長八年吉原から出られないことになる。彼女がここまで何年いたのかわからないが、吉原に来て一年目、二年目だと先は長い。

それこそ結核のように、客をつけられる状態ではない病気の場合、妓楼としても置いておく必要はなく、借金を棒引きにしても出ていってもらった方がまだいいのだが、追い出したところで、行く場所はあるまい。親元に戻ったところで、ほとんどの場合、働かずにメシを食って寝ている娘を置いておく余裕はない。こうやって妓楼に置いておき、亡くなった時には浄閑寺に葬ると、また心ない人々が叩く根拠にしてくるわけだが。

この場合は娼妓に死ぬ理由もあろう。働けないのに妓楼にいることが苦痛だろうし、遊廓を出た時にどうしようもない状態に置かれることも不安である。もう少し先に具体例を見ていくが、娼妓たちが不安がっていたのは、遊廓にいる今の状態が終わった時のことだった。

金のある客に見初められて落籍され、妻にでも妾にでもなれればいい。落籍されなくても、年季明けに結婚の約束をしている客がいればいい。そうじゃなければ家にも帰れず、行く場所もない。落籍されずとも、客と結婚する娼妓は多かったのだが、寝こむような病気となればそれも難しい。

ほとんど存在しない叶わぬ恋の果てに死ぬ遊廓の心中を自分に重ねて死にたがる客もいれば、病を抱えて、日々、死を想う娼妓もいたわけだ。

さて、この記事、どうして娼妓が廓外にいたのか不思議に思う人もいるだろう。ひとたび遊廓に入った女は年季が終わるまで、あるいは身請けされるまで、二度と堀の外に出られなかったのではないか。なぜ吉原から離れた堀切で死ぬことができたのか。

 

 

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