松沢呉一のビバノン・ライフ

娼妓を死に追いやったもの-「吉原炎上」間違い探し 30[ビバノン循環湯 104] (松沢呉一) -3,380文字-

『廓の子』に見る遊廓の現実-「吉原炎上」間違い探し 29」の続きです。

 

 

 

娼妓が死ぬ事情

 

vivanon_sentence前回に続き、加藤てい子著『廓の子』の主人公の母が経営する妓楼で亡くなった娼妓たちについて見ていく。

三人目の娼妓は藤子。処女で遊廓にやってきたため、主人公は逃げるように勧めるのだが、藤子は毅然と拒否する。

わざわざ処女であることを強調し、それがゆえに逃げることを勧めていることから、この時代でも、また、福井でも、処女で遊廓に来るのはごく一部だったことが読み取れよう(農村部の性にまつわるモラルは急激に変化していき、都市部においてもキリスト教的処女性の賛美が高まり、戦時体制に向かって 抑圧的な教育が進んでいたため、明治時代ほど処女が珍しい存在ではなくなっていた可能性もあるが)。

主人公と違い、藤子は自分の育った現実をよく知っていて、逃げたところで意味がないこともよく知っていた。娼妓たちは逃げたいのに逃げなかったのでなく、逃げても意味がないことを知っていたから逃げなかったのである。

やがて童貞の宇津木という客が藤子につき、繰り返し宇津木は藤子のもとにやってくるようになる。主人公はこの宇津木に惹かれるようになり、藤子と宇津木と主人公の奇妙な三角関係が始まるが、主人公はこの関係から逃げ出す。宇津木は厭世的になっていて、最初から死ぬ相手を求めていたところがあり、それを主人公は察知したようでもある。このエピソード自体創作かとも思うが。

そして、宇津木と藤子は心中を果たす。つまり、死ぬ事情は宇津木にあって、藤子はそれにつきあった「同情心中」と言うべき心中であった。

もちろん、娼妓の側からすれば、自分の身を儚んでということもあろうが、娼妓たちが儚んだのは、遊廓の生活が過酷だったからだろうか。外出もできないような「籠の鳥」だったからだろうか。

この事情については、四人目の例がよく説明してくれている。

※遊廓か料亭っぽいですが、神社です。以下、今回はすべて遊廓とは関係のない写真です。

 

 

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