松沢呉一のビバノン・ライフ

性を隠蔽する社会-「吉原炎上」間違い探し 38(最終回)[ビバノン循環湯 113] (松沢呉一) -4,484文字-

夢をなくした娼妓たち-「吉原炎上」間違い探し 37」の続きです。

 

 

 

禁欲を美徳とするドラマ

 

vivanon_sentenceドラマ「吉原炎上」で、のちに結婚することになる大倉は吉原に久野に会いに来て、絵だけを描いていたことになっている。セックスなし。

ここにも今の時代の安っぽい感性、その内実は安っぽい道徳観を疑問なく投影させているわけだ。原作では、大倉は芸者や娼妓を呼ぶ座敷で久野と出会っているが、ドラマでは出会いも偶然によるものに改変。大倉はもとより娼妓が来るような場所に行かなかったかのようである。

ドラマでは久野が処女ではなかったことまで伏せてしまったように、禁欲を善と考えるような人々によって原作は蹂躙されてしまっている。処女を崇拝したのは当時の人たちではなく、この番組を作った人々である。戦中派か。

久野が吉原に来た時にすでに処女じゃなくたって、娼妓になって以降もその男とデートしていたって、大倉が客となって久野とセックスをしていたって何らおかしなことではない。その後の幸せを貶めるものでもない。今だってそうだ。

原作のままではお茶の間では受け入れられないと考えたのかもしれないが、だったらテレビで遊廓を舞台にした原作のドラマ化なんてやってはいけない。今とは違う性についての考えを人々が持っていた時代に忠実な原作を扱ってはいけない。野球とサッカーだけやっとけ。

遊廓や売買春にまつわる物語が改竄される背景には、性の売買に対する嫌悪感だけではなく、性そのものに対する嫌悪感、恐怖感が関わっていそうだ。

※あくまでイメージ写真

 

 

ドラマが改変したふたつの方向

 

vivanon_sentenceドラマ「吉原炎上」が原作を改変した点を整理すると大きく二種ある。ひとつは歴史的におかしな改変。ひとつは歴史的にあり得る範囲での改変。

たとえば遊廓では間引きしていたかのように見せるための墓を登場させたことや脳梅らしき娼妓を登場させたのは前者だ。今の時代に考えればあのような遊廓なんてもんはあってはならないことだったのは歴然としているのだから、何もウソを加える必要はない。

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前借で人集めをすることも、親がいかに貧しかったのだとしても娘がその責任を負うことも、だらしのない親族が娘の稼ぎを掠め取っていくこともあってはならないことだったのだから、それをそのまま描けばいい。ウソを加えないではいられないのは、現実のままの遊廓は悲惨ではなかったと思っているってことなのだろう。

「ひどい親」という側面については強調されないのだから、「ひどい親でも容認」という価値観でドラマは作られ、世間一般の遊廓イメージは作られている。家族は大事、そのために娘が犠牲になるのは当然ってわけだ。

対して、勇吉が久野にひどい言葉を投げつけて追い返したことや大倉が絵だけを描きに来ていたことはあり得る範囲での改変だ。あり得る範囲の改変の中にも、「笑わない花魁」のように、不自然な改変というものもあるが、それはここでは触れないとして。

テレビで視聴率を上げるためには、無闇に人は死んだ方がいいし、悪人がいた方がいいのだとしても、歴史的にあり得ない範囲の改変はNGだろう。

たとえば原爆の悲惨さを強調するためだとしても、広島市で百万人が亡くなったと改変するのはNGである。そんなことをせず、事実のまま伝えれば原爆は悲惨であり、あってはならないことだ。なぜウソをつく必要があろうか。

また、あり得る範囲だとしても、実在した人物を貶めるような改変は許されないという話もすでに書いた通り。

 

 

道徳で原作を改変することは許されるのかどうか

 

vivanon_sentenceもうひとつ、改変の分類として、「遊廓を現実以上に貶めるための改変」と「道徳的に正しい方向での改変」とがありそうで、この両者は密接に関係しているのだと思われる。

 

 

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