松沢呉一のビバノン・ライフ

個人の肉体が個人のものではない国-マイク・モラスキー編『街娼』 2-(松沢呉一) -2,521文字-

パンパンをどう評価するのか-マイク・モラスキー編『街娼』 1」の続きです。

 

 

 

反逆者としてのパンパン

 

vivanon_sentence闇の女たち』第二部「日本街娼史」では、当時、ニューヨーク・ポストの特派員が描いた「反逆者としてのパンパン」という見方を紹介しています。

日本の旧態依然とした家父長制を強く批判しながらも、この特派員は「誰がそれを支えてきたか」を正しく見抜いています。男たちだけではなく、女たちもこれを維持してきたのであり、女たちは変革を望まなかったのだと。

それに反逆したのがパンパンたちでありました。だから、同じ道徳に依って立つ男たちも女たちも揃ってそれを嫌い、蔑視したのです。

日本の婦人運動家の多くも、この道徳の上に乗った上での改善を求めるだけであり、それに楯突く反逆者たちを潰してきました。パンパンに対してもそうですし、セックスワーカーの先駆的組合であった新吉原女子保健組合などの赤線従業婦組合を売防法で潰したのも女たちでした。

女たちが父権主義の道徳を守護する国、それが日本です。

そのことを見抜けるのは米国から来た特派員であり、米国人の研究者であり、はみ出し者のエロライターである私であることの哀しみよ。こんな惨状だから、私の活躍の場があるわけで、ありがたいことですけどね(皮肉)。

※図版は売防法制定に抵抗して街頭での活動をする赤線従業婦たちを報ずる「婦人新風」

 

 

「事実のように見せかけた創作」という問題

 

vivanon_sentence街娼』は小説のアンソロジーであり、モラスキーさんの文章は本の一部でしかないのですが、わずかな分量であっても、同意できることが多数あって、「やっぱりそこに行き着きますよね」という点がありました。

事実のように見せかけた創作」という問題です。街娼に限らずなのですが、この時代のものを読む時には避けて通れない問題です。カストリ雑誌なら、はなっから「ウソ記事だろう」と構えるところですが、本になっているものでも創作ものがあるのです。一方で、小説として出されたものでも、実在の人物をモデルにしたものもあるので、どこまでが事実で、どこまでが創作なのかの判断は本当に難しい。

『街娼』の解説では水野浩編『日本の貞操』と田中喜美子著『女の防波堤』が挙げられています。根拠を挙げて、そのどちらも男性作家による創作だとしています。

田中喜美子著『女の防波堤』はいたるところに創作臭さがありつつも、同時に一定の取材はしているだろうと思われて、真偽がわからないものであると付記をして『闇の女たち』で使用しています。

対して『日本の貞操』は一読して創作であることがわかる代物です。たしかこの本が出た当時に、男性による創作だという指摘が週刊誌でなされていたと記憶します(もちろん、リアルタイムに読んだものではありません。自分の書いたものを検索したのですが、その記事は見つかりませんでした)。

なぜか『日本の貞操』のような「三流小説」(モラスキーさんの表現)が戦後史を知るための記録として今なお利用されています。中身は「三流エロ小説」だとしてもいいかと思うのですが、それを事実だと受け取る人々。研究者でさえも。

日本の貞操』については『占領の記憶/記憶の占領―戦後沖縄・日本とアメリカ』でさらに詳しく論じているそうなので、こっちも読まないと。

 

 

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