松沢呉一のビバノン・ライフ

善人を悪人にするテレビドラマ-「吉原炎上」間違い探し 36[ビバノン循環湯 111] (松沢呉一) -3,278文字-

親族に花魁がいることを誇れた時代-「吉原炎上」間違い探し 35」の続きです。

 

 

 

娼妓を制裁をしないではいられないドラマ

 

vivanon_sentenceドラマ「吉原炎上」では、久野の幼なじみで結婚を約束した勇吉という人物が出てくる。彼は妹から久野が遊廓にいることを聞いて会いに来て、かつての約束を確認し合う。

いずれは結婚できるものだと思っていた久野だが、勇吉が軍人であるというのはウソであり、結婚して子どももいることを人から聞いて半狂乱になり、無我夢中で遊廓から逃亡したことはすでに書いた通り。

遊廓から逃げ出した久野は、勇吉の家にまで行って妻子がいることを知る。勇吉は久野に「誰が女郎と結婚なんてするか」などとひどい言葉を投げつける。嗚呼、親孝行のために吉原に来たというのに、ひとたび売春なんてことをした女はこんな制裁を受けてしまうのだ。なにがあっても売春なんてしてはいけない。ってか。

明治末期ともなると、そういう考えをする人間がいたかもしれないが、明治二十年前後を舞台にした原作にはこんな話は出てこない。これも薄っぺらな創作。

勇吉という人物が実在したのは原作にある通りで、久野が遊廓に入る前から、彼らはすでに肉体関係をもっていた。勇吉が妹に聞いて、久野に会うため、吉原に来るのは原作通りだが、原作では、最初に吉原に会いに来た時から勇吉は結婚して子どもがいることを告白している。久野がそのことを人から聞いて半狂乱になるなんてこともないし、当然、それを確認するために逃亡もしていない。

 

 

許されない改変ではないか?

 

vivanon_sentence勇吉は繰り返し久野のところに客として通った。また、久野は外出許可を得て、遊廓の外で会っていたこともすでに書いた通り。勇吉は、久野が大火で焼け出された時はすぐにやってきて、見舞金を渡している。互いの間には強い信頼関係があって、すでに結婚をしていた勇吉だが、なお二人は愛し合っていたと言っていいかもしれない。

軍人であったことはウソではなく、彼は戦死してしまう。ドラマのようなひどい人間ではなく、原作では、久野にとっては最初から最後までいい人として描かれているのである。

「結婚していてもいい客」「結婚していてもいい関係」ということが普通にあった時代であり、今だってあるが、「結婚しても遊廓に遊びに来るような人間をいい人として描くわけにはいかない」「売春をする人間と、その客の間に信頼関係などあってはならない」と考えたからといって、また、所詮遊廓の話だからといっ て、あるいは、その人物も関係者もとっくに死んでいて文句を言われないからといって、おそらくは実在の人物をああもひどい人間に仕立てることは許されないのではないか。

もし久野が生きていたら、何があろうと、こんな改変を許すはずがない。原作者の斎藤真一が生きていたとしても許さなかったのではなかろうか。

ドラマの勇吉がウソまでついて久野を弄ぶことと同様に、テレビドラマがウソまでついて、事実をもとにした原作と視聴者を弄ぶことは、私は許されないと考える。視聴率をとってゼニを儲けるためにはなんだってやってのけるテレビに、表現者としての、それ以前に人としての当たりまえの倫理を求めることは土台無理な話なのだろうか。

※後ろ姿の花魁絵葉書

 

 

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