パンパンとオンリーを描いた小説集-マイク・モラスキー編『街娼』 3-(松沢呉一) -4,614文字-
「個人の肉体が個人のものではない国-マイク・モラスキー編『街娼』 2」の続きです。
街娼とパンパンの違い
マイク・モラスキー編『街娼 パンパン&オンリー小説集』を読み終わりました。
まずこの本について言っておかねばならないのは誤植が目立つってことです。「この文章は日本語としてこなれてないだろ」と思ったら大江健三郎の文章だったので、これは誤植ではないと思いますが、読点が句点になっていたり、不要な濁点がついていたり、OCRの読み取りの間違いがそのまま残ったと思われる単純な誤植がいくつもあります。
小説の冒頭に出ている著者名をシールで訂正しているところもあって、編集者はもっと丁寧に校正をした方がよいかと思います。
校正が嫌いな私ですけど、改めて校正は大事だなと思いました。しかし、戦後すぐの出版物はいい加減ですから、焼け跡時代を忠実に再現したのかもしれない。皮肉です。
私は小説を資料として読む癖がついてしまっていて、そこに提示される世界に浸って虚構を楽しむという読み方をあまりしなくなっています。その私にとって、「資料としての小説」という意味で参考になる点は思ったほどありませんでした。
そもそも編者と私の興味が少しずれています。この本は「街娼小説集」ではなく、サブタイトルの「パンパン&オンリー小説集」でした。編者も、そういう意図で作品を選択をしていて、「パンパン」というタイトルするつもりだったと書いています。しかし、今の時代には一般的ではなく、タイトルは「街娼」になり、サブタイトルを「パンパン&オンリー」としたわけですが、「街娼」というタイトルだと、中身とズレが生じてしまいます。
『闇の女たち』で詳しく説明していますが、「街娼」という言葉はもともと幅が広く、もっとも広義の用法では、公娼に対する私娼を指します。その意味ではこの本に出ている女たちは街娼ではあるのですが、私にとっての街娼は路上に立って客を引く「直引き」のことです。
この本の中で、私にとっての街娼にはっきり該当するのは吉田スエ子「嘉間良心中」の主人公のみです。他はオンリーであったり、店に所属する女給・従業婦であったり、金銭の伴わない遊びであったり。どういう業態かはっきりとした記述のないものもありますが。
しかし、それらはすべてパンパンではあって、なかでも米国と日本という関係を反映したパンパンにこだわる編者と、路上に立つ街娼にこだわる私との違いと言えましょう。
売春婦小説集としての『街娼』
本書に収録されているのは立派な文学者による文学作品であって、私だったら、カストリ雑誌に出ているようなもっとチープな小説を集めるだろうなと思いながら読みました。そういうもんしか読んできてないってことですけど、それはそれで真実があって、文学らしさを書き手も読者も求めていないがために生々しく現実を描いている。あるいは生々しく自己の道徳観を投影してしまう。どっちに転んでも「文学バイアス」がない生の感触があります。
文学領域に至ると、パンパンの存在はしばしば隠喩的存在に引っ込んでしまいます。女の象徴だったり、日本の象徴だったり、時代の象徴だったり、敗戦の象徴だったり。生身ではない存在になってしまうのです。事実、本書に出てくるパンパンの幾人かは輪郭がぼやけた存在でしかなく、どういう状態で商売をしているのかもはっきりしない。
そういうものと割りきって、「資料としての小説」ではなく、この本を私は「娯楽としての小説」として読んでいて、その意味では面白みは十分にあって、とくにこの中のひとつは、読み終わってしばらく言葉をなくすくらいの、あまりに意外な結末になっていて、その小説を読むだけでも、この本を買う価値はあります。読み終わって数時間は目眩がするくらいにラストシーンが頭の中を巡っていました。これは文学の力。
その小説を筆頭に、この本を「売春小説集」として読むと、また見えてくるものがありました。
※今回添えた写真は先日福生で撮ったものであり、直接内容には関係がありません。この建物は旧青線街にあるメイド喫茶。
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