松沢呉一のビバノン・ライフ

親族に花魁がいることを誇れた時代-「吉原炎上」間違い探し 35-[ビバノン循環湯 110] (松沢呉一) -2,982文字-

売春に対する蔑視の変遷-「吉原炎上」間違い探し 34」の続きです。

 

 

 

吉原遊廓と福井の遊廓の違い

 

vivanon_sentence話は数回前に戻る。

ドラマの原作である斎藤真一著『吉原炎上』と加藤てい子の小説『廓の子では、遊廓、妓楼の描き方が全然違っている。前者は華やかさがあるのに対して、 後者は陰惨ささえ漂う。これは書き手の考え方によるところも大きいのだが、前者は日本有数の遊廓であり、対して後者は福井の遊廓。その違いも反映されていよう。

日本遊覧社編『全国遊廓案内』(日本遊覧社・昭和5年) によると、福井市の遊廓は石場畑方にあり、貸座敷は三十五軒、娼妓は約二百人とある。福井は羽二重の産地で、それなりには裕福な層がいて、京都の流れを汲む花柳界が発達はしていても、小規模な妓楼の多い鄙びた遊廓だったようである。

ここまで書いてきたように、堀も塀もなかった遊廓では、その行動を制限しにくく、制限する必然性も薄い。『廓の子』で、娼妓が日常的な買い物程度で遊廓の外に出る自由があったのは福井特有なのではなくて、日常的な買い物は遊廓の中で済んだため、頻繁に外出する必要がなかった吉原が特殊だったと見てほぼ間違いない。

その吉原でも、広い遊廓の中では自由に行動できたことはドラマでも描かれていた通り。理由があれば単独で遊廓の外に出られたのは『吉原炎上』の原作にあった通り。明治末期であれば、さらにゆるくなっていたことも指摘してきた通り。

 

 

なぜ娘に吉原にいたことを話したのか

 

vivanon_sentenceそんな環境で多くの娼妓はなぜ逃げようとしなかったのか。逃げてもしょうがなかったから。実家に戻っても親に戻される。そもそも実家に戻りたいと思っていない女たちも多かった。仕事などありはせず、白いメシも食べられないような実家、食べさせてくれないような実家に戻ってどうすればいいのか。実家に戻らないとしたら、どこに行けばいいのか。娼妓より過酷な女工になるのか。いわば傷物になった自分は結婚もできるのかどうか。

こういう娼妓の不安は明治初期より明治後期、明治より大正以降に強まっていた。『吉原炎上』の原作は明治二十年頃、ドラマはそれから二十年後、『廓の子』はさらに三十年ほどあと。この間に、遊廓をめぐる環境、社会の見方が大きく変質しているのだ。

明治以降、その地位は徐々に落ちていくが、『吉原炎上』のあとがきには、著者の母親が小学生だった時に、「うちのお母さんは、吉原で太夫だったのよ」と友だちに自慢し、皆が「ヘェーそんな偉い人なの」と驚いたというエピソードが紹介されている。明治三十年代のことである。

今の時代に「うちのお母さんは吉原のソープランドでナンバーワンだったのよ」と自慢する人はおらず、私以外に「ヘェーそんな偉い人なのか」と感心する人たちもあまりいないだろうが、江戸時代同様、明治三十年代になってもなお吉原は特別、太夫は特別な存在であった。

斎藤真一著『明治吉原細見記』(河出書房新社・1985)より久野の写真。向かって右が久野。左は養祖母

 

 

花魁がトップレディーだった時代

 

vivanon_sentence娘が語る久野、孫の斎藤真一が描く久野はどうしたって身贔屓が入っているかと思う。しかし、吉原の太夫を特別に扱う感覚は、世間一般に広くあったものだ。

斎藤真一はこう書いている。

 

 

この頃、明治三十年代でも田舎の駄菓子屋さんで玩具絵(おもちゃえ)として木版の遊女一覧表や、双六の「上り」が花魁の太夫であったりするものが売られていた時代だから、当然日本のトップレディーが花魁だったのかと、なるほどうなずいたものである。私自身も漫然とそう思っていた。

 

 

 

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