松沢呉一のビバノン・ライフ

なぜふっくらした娼妓が多かったのか-「吉原炎上」間違い探し 28[ビバノン循環湯 102] (松沢呉一) -3,430文字-

中平文子が化け込んだ吉原-「吉原炎上」間違い探し 27」の続きです。

 

 

 

娼妓の食事

 

vivanon_sentence前回、新川楼の娘の言葉の中に「お茶を引くと華魁だって可愛想よ、お菜(かず)なんか皆自分でお菜屋さんから買って食べるのですからねえ」とあった。この意味が理解しにくいかもしれないので、娼妓の食事について説明しておく。

DSCN6027日常かかる経費のどこまでを娼妓が負担したのか、どこまでを妓楼が負担したのかは契約による。契約書は各地の貸座敷組合が雛形を作っていることが多かったろうし、道府県令の違いが反映されるため、地域によって似通ったものになっていたが、大店、中店、小店の違いもあるため、妓楼単位で違うこともあった。

しかし、どこの遊廓であっても、どこの妓楼であっても、住む場所と食事は妓楼の負担だ。あとの着物や髪結代、入浴代(内風呂がない場合)については、枚数、回数の制限をしつつ、妓楼負担のところもあった。

ドラマでは、娼妓たちがロクな食事をとらせてもらえなかったという話が出てくる。こういう話はよく本に出ていて、妓楼からの食事が質素だったのは事実である。ただし、これは世間一般に質素だったことの反映であって、「ハンバーグが出ない」「カレーが出ない」「パスタが出ない」という見方は不当。

そのことは『女工哀史』を読んでいただけれぱよくわかる。『女工哀史』には工場の献立が詳細に出ているが、朝と昼はご飯とお新香と具がほとんどない汁ものが出る程度。夜だって、それに毛が生えた程度。それでも白米が食べられるというので、農家の娘たちは喜んだ。そのくらい農家の食事は貧しかった。

※今も営業している吉原土手の天ぷら屋「伊勢屋」

 

 

娼妓たちは肉も食えた

 

vivanon_sentence妓楼が用意する食事は工場と似たようなものだったが、そこだけをとらえて、「娼妓はろくな食事も与えられなかった」とするのは大間違い。現実には娼妓たちは女工とまったく違う食事をしていた。

チョンの間もあったにせよ、当時の客は泊まりである。客は気に入った娼妓と食事をし、酒を飲むこともまた楽しみにしていた。客は奮発しておいしいものを注文し、女たちに「何か食いたいものはあるか」などと聞いたことだろう。

DSCN4924遊廓内にも、吉原土手にも、各種の料理屋が軒を並べていた。桜鍋屋や天ぷら屋が残る一角に行けば、今もその痕跡を見ることができる。

遊廓に行く客、行ってきた客のためだけではなくて、遊廓周辺には宴会をやる料理屋が発展し、中で食べる料理を作る店もまた発展した。横浜・真金町の遊廓周辺に牛鍋屋ができ、そこから牛鍋は広がったように、しばしば新しい料理はどこよりも早く遊廓で浸透したのである。

こういったものを食べていたのだから、娼妓は一般庶民よりもはるかにいい食生活をしていたと言ってもいい。

これが前提になっていたからこそ、あえて最初から客と一緒に食事をしないという知恵も生まれた。「そこまではまだ気を許してはいませんよ」と。また、当時の心得を書いたものの中には、娼妓が客を前に食事にがっつくのはみっともないため、「その前に軽く食べておけ」とあったりする。がっくつのはよくないとしても、「食うな」という話ではない。

もちろん、客がつかなければ、食事をおごってもらうことができないため、妓楼から出るお新香と汁ものや、うどんだけで食事をするしかない。いいものを食いなれた娼妓たちはそれでは満足できないため、おかずは買ってくることになる。これが新川楼の娘が言っている言葉の意味。お茶を挽くと、収入にならない上に出費がかさむわけだ。

※同じく吉原土手の桜鍋屋「中江」

 

 

ふっくらした娼妓の数々

 

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では、娼妓は十分に栄養のある食事をしていた証拠を見ていくとしよう。写真を見ればいいのである。以下は花魁絵葉書。

 

 

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