売春対策審議会会長・菅原通済の主張-娼妓と芸妓の地位が逆転した事情 3-(松沢呉一) -3,064文字-
「メディアから消えた娼妓-娼妓と芸妓の地位が逆転した事情 2」の続きです。
デマを流したもん勝ちのこの国
結局のところ、世間の判断はイメージでなされる。遊廓は叩いていいとのイメージ、否定されるべきとのイメージがあればいい。事実なんて必要がない。そうとでも考えないと、これだけデタラメなドラマが放置され、出処は同じで、隣接した存在だった娼妓と芸妓が180度と言っていいくらいの扱いの違いを受ける理由が見当たらない。
現実がどうあれ大門が閉じられていたに違いないとのイメージ、そこでは芸妓ではなく娼妓のみが死んだイメージ、浄閑寺では娼妓のみが投げ込まれたイメージ、娼妓になる前からさんざんセックスして子どもを産んでいても処女が泣く泣く客をとったイメージがあればいい。肉を食って肥えていても、食うものを食わず痩せ衰えたイメージがあればいい。
そんな事実はないのであれば、そのイメージを作り出せるデマを持ち出せばいい。閉じられる扉は不要。イメージの中で門が閉じられればいい。どうせ世間の人たちは調べる手間をかけたりせず、検証する能力だってないのである。それを実践し続けたのが矯風会だ。
別立てのシリーズで細かく見ていくように、同じく前借で縛られた女工の方があらゆる点で過酷だったにもかかわらず、そちらには触れない。農村部の方がさらに過酷だったが、それも見ない。『女工哀史』で著者の細井和喜蔵はそれに対する苛立ちを隠していない。「なぜ公娼制度廃止論者はさらに悲惨な女工の待遇を改善しようとしないのか」と。
事実は邪魔。社会を動かすのはそれらしきイメージだけでいい。そのイメージ戦略が遊廓の凋落、娼妓の地位転落に成功した。花柳界のイメージ戦略も成功した。その結果が娼妓と芸妓の地位逆転であった。
それが現在も続いている遊廓イメージであり、花柳界イメージである。
※下に出てくる引手茶屋・松葉屋があった場所。吉原の資料を集めたテーマパークにするという計画もあったが、金が集まらなかったらしく、現在は何の変哲もないマンションに。一階には吉原大門交番が入っている。松葉屋があった時には訪れているのだが、場所がわからなくなって、「たしかこの辺だよな」と交番で聞いてもわからず、近所の人に聞いて、ここだと教えられた。
花魁道中が批判され、舞妓が持て囃される国
ずいぶん前になるが、吉原にあった松葉屋でやっていた花魁道中のショーに対して婦人団体がクレームをつけたことがある。今現在、花魁が存在するわけでもなく、ソープ嬢が演ずるわけでもない。松葉屋はもともと引き手茶屋であって妓楼でもない。それでもイメージとしての歴史で否定される。何と闘っているのやら。
その一方で、京都の舞妓は日本を代表する観光資源として持ち上げられ、児童福祉法や風営法の適用も見逃されており、いわば特例的な地位を得ている。こちらには文句をつけないのは、遊廓のような虚偽のイメージで貶められなかったためだとしか思えない。
その果てに、左褄についても遊女・娼妓を貶め、歴史を歪曲するデタラメが浸透してしまっている。「江戸しぐさ」のように批判されることもないまま、ムチャクチャがまかり通る。
現実には今だって転ぶ芸妓はいる。温泉地の枕芸者じゃなく、都内の有名花街でもそうである。初めて座敷に呼んで「あの子と今晩」というわけにはいかず、それ相応の信頼を得た上で、それ相応の時間と金と手続きが必要なので、一般の性風俗とは違うとは言えども。
また、今だって、一度も旦那をつけたことのない芸妓は少数派に属するだろう。これは芸者さんから聞いた話。
つまりは金のある人たちが金でセックスをしたり、愛人にしたりすることは容認されている。しかし、貧乏人が一時間程度遊ぶことは許されない。これは「婚姻に近づけばよし」ということであって、長期の売春たる結婚はOK、短期の婚姻たる売春はNGということにほかならない。
※吉原神社にて
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