松沢呉一のビバノン・ライフ

親族が亡くなっても家に帰れない-『女工哀史』を読む 3-(松沢呉一) -3,082文字-

奴隷制度と年期制度の違い-『女工哀史』を読む 2」の続きです。

 

 

 

どこをとっても女工の方が過酷

 

vivanon_sentence女工に比して、娼妓はまだしもマシ、あるいははるかにマシだったことは、『女工哀史』で繰り返し指摘されている。ほとんどすべての点において、女工は娼妓より過酷な労働環境に置かれていたと言っていい。

細井和喜蔵は女工と娼妓を比較してこう書いている。

 

公娼制度撤廃論者は、彼女(松沢注:娼妓のこと)が二重の束縛を受けてゐると唱えるが、二重の拘束に身動きならぬ者は独り公娼ばかりでなく、女工も等しく二重の奴隷的制度に縛られてゐる。日給の為の「賃金奴隷」と前借のための「満期づとめ」—労働時間終了後に於ける寄宿舎の桎梏、これ正に公娼以上幾重もの奴隷制度でなく何であらう。

 

「奴隷制度」ではなく「奴隷的制度」としているのは、狭義の奴隷ではないためであろう。奴隷制度は期限なく自由を奪われ、労働を強いられることを指す。安易に「奴隷制度」という言葉を使いたがる人たちよりも細井和喜蔵は慎重である。最後は「奴隷制度」となっているのは、「女工の方が奴隷に近い」と言いたいのかも。

細井和喜蔵は娼妓との比較をした上で、「女工の方がさらに過酷」とはっきり言っている。私だけが感じていることではないことをどうか確認していただきたい。

また、ここでは、わざわざ「公娼制度撤廃論者」を持ち出していることに留意していただきたい。「どうして彼らは公娼制度を批判しながら、より過酷で、より大規模に行われている女工の酷使については目をつぶるのか」との苛立ちが細井和喜蔵にはあった。私の問題意識もここにある。「なぜか」についてはずっとあとで検討する。

 

 

女工の労働時間

 

vivanon_sentence細井和喜蔵は、借金によって身体を拘束されることだけをもって奴隷的制度と言っているのでなく、その他の条件を含めて比較している。

まずは労働時間の長さだ。工場での労働時間は、第一期、つまり明治初期は十二時間から十四時間、第二期以降は十一時間から十二時間となっていた。

十四時間だとすると、朝の八時から夜の十時までである(当時の工場は日の出とともに操業だったため、実際の始業はもっと早いのだが、今の時代にはピンと来ないので、朝八時からにしてみた)。

これが正規の労働時間で、そのあとわずかな手当のつく「夜業」というものがあった。これを細井和喜蔵は「強制的残業」と書いているが、女工たちは喜んで夜業をしていたそうである。

今現在でも、このくらいの労働時間が当たりまえになっている業種や会社もあるだろう。マスコミ関係もその例外ではない。雑誌の締切前は、ライターも編集者も睡眠不足が続き、印刷会社の人たちも同様だ。

しかし、私らは座ってられる。休憩もできる。立ちっぱなしの単純労働をこれだけの時間続けるのは苦行でしかない。

娼妓の場合、当然人によって違い、日によっても違うが、客がつく時間とその準備、片付けにかかるのは、八時間から十四時間といったところだろう。夕方から朝まで。

客がい続ければ二十四時間ということもあったが、その間、客とともに酒を飲んだり、食事をしたり、睡眠をとったりもできた。客だって食事をしたり、寝るわけで。

それに対して女工たちは、食事以外、ほとんど休憩はとれず。

 

 

狭い工場の敷地から外出もできなかった女工たち

 

vivanon_sentence他の資料を見ても、夜業のために、労働時間は時に十六時間から十八時間にも及ぶことがあったと言う。これでは仕事のあとに外出する暇もない。暇があったとしても外出は許可されない。週に一回の休みがとれたところで、外出は容易ではなかった。

遊廓では外出が一切できなかったように書かれているものは間違いである。とは言え、単独で外出できるのは、信頼を得ている娼妓であり、外出するにも楼主の許可が必要で、とても自由に外出できたとは言えない。

では、女工はどうだったのか。

 

 

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