金銭面でも女工と娼妓は雲泥の差だった-『女工哀史』を読む 10-(松沢呉一) -3,167文字-
「女工はいくらもらっていたのか-『女工哀史』を読む 9」の続きです。
娼妓の収入
前回見た女工の薄給に対して、娼妓の収入はいくらくらいだったのだろう。給料制の女工と違い、大店か小店か、人気があるのかないのかによって大きな差が生じ、前借をどう返済するのかの方法によっても違うため、標準的な数字を出すのが難しいのだが、揚代(遊興料)からざっくりした数字を出してみるとしよう。
前回見た女工の収入と合わせるため、大正末期から昭和初期の遊興料金を調べると、吉原の小店で、泊まりは三円から四円、大店で七円から八円。物価が今の二千分の一として、大店で泊まって一万四千円から一万六千円。今の時代に比べればうんと安い。ヘルスの五十分コースの料金で、もっとも高いクラスの妓楼に泊まれたことになるが、これは何を基準にするかによるし、遊び方が違うので、そのまま比較することにあんまり意味はない。
戦前は、引き手茶屋で芸者や幇間を呼んで騒ぎ、それから妓楼に行くことが多く、娼妓とともに食べたり、飲んだりする客も多かったため、この何倍も使う客もいたが、ここでの出費は娼妓たちとは関係がない。
遊廓の時代は、泊まりの前に「時間の遊び」を一人か二人とる。これを「ちょんの間」と呼び、戦後は「ショート」と呼ぶようになる(この辺の用語には時期による違いもあり、「時間遊び」と「ショート」とは別の場合もあるが、ここでは細かいことは無視)。
これが小店で二円、大店で四円くらい。二時間の料金の倍を出せば泊まりができるのは料金設定がおかしな気もするが、泊まりは、酒を飲んだり、食事をしたりしながら話をする時間が長く、また、睡眠時間もある。セックスを実労働とするなら、二時間も泊まりもさして変わらないとも言える。
また、東京の遊廓ではどこもそうだったように、「廻し」と言われる方法がとられていて、泊まりでは複数の客をとり、一晩のうちに、二部屋、三部屋を娼妓は回る。そのため、泊まりでは値段を安く抑えられたという事情もある。
これ自体が過酷と見なされがちだが、三十分、四十分といった単位で相手をする今のピンサロ嬢、ヘルス嬢の方が過酷ではなかろうか。個人の向き不向き、得意不得意もあるため、一概には言えないが。
※写真は現在の吉原にて
妓楼と娼妓の配分
時間遊びを二本、泊まりを二本とれば、大見世の娼妓は一晩で二十円以上を売り上げたことになる。このうち、娼妓の取り分はいくらなのかだが、数字がマチマチである。明治時代の本に出ている明細によると、貸座敷と娼妓の取り分は半々ということになっている。
一方、斎藤真一著『吉原炎上』にはこう出ている。
揚代というのは一人の客から取るお金で、花魁たちは普通、その三分をもらえることになっていた。久野の場合、四十銭のうち十三銭をもらい、あとの十四銭が御内所に、残り十三銭のうち十銭が食費として差引かれて三銭が積立金となるのだと、お内儀さんから教えてもらっていた。
上の数字より揚代がうんと安いのは時期が違うためだが、取り分は三割。積立金は最終的には自分のものだから、十六円が娼妓のもの。遊興費の四割である。
しかし、斎藤真一の『明治吉原細見記』では、娼妓の取り分は25パーセントになっている。さらには、ものによっては10パーセントとしているものもあって、こうも数字が違うのは、時代によって、あるいは地域によって、遊廓によって計算方式が違うことが原因のひとつ。
貸座敷と娼妓が半々に分け、別途食費などが引かれるケースもあるし、込みで四割というところもあって、実質両者の違いはたいしてない。
数字を低く見積もる人たちの心理
斎藤真一著『明治吉原細見記』では、ここから積立金や前借の返済分を引いて、25パーセントを娼妓の収入としているのだが、これはおかしい。
できるだけ、娼妓は悲惨であって欲しく、それによって遊廓を批判した人たちは数字を低く見積もりたがり、その結果、10パーセントといった数字も出てきてしまう。これが娼妓の収入の見積もりに大きな差が生じる、もうひとつの理由だ。
(残り 1598文字/全文: 3356文字)
この記事の続きは会員限定です。入会をご検討の方は「ウェブマガジンのご案内」をクリックして内容をご確認ください。
ユーザー登録と購読手続が完了するとお読みいただけます。
会員の方は、ログインしてください。
外部サービスアカウントでログイン
Twitterログイン機能終了のお知らせ
Facebookログイン機能終了のお知らせ