松沢呉一のビバノン・ライフ

売防法が守ろうとしたもの-娼妓と芸妓の地位が逆転した事情 4(最終回)-(松沢呉一) -3,370文字-

売春対策審議会会長・菅原通済の主張-娼妓と芸妓の地位が逆転した事情 3」の続きです。

 

 

 

菅原通済の下半身事情

 

vivanon_sentence菅原通済は随筆集を多数出しており、古本屋で容易に、かつ安価で買える。全然面白くはなく、得るところは何もないのだが、何冊か読んでみた。

通済放談―群魔頓息 (1951年)一九五七年(昭和三二年)に出た『をとこ大学』(翠書房)は、時期が時期なので、売防法についても書いているだろうと思ったのだが、ほとんど触れてない。ただのつまらん艶笑談。世の中には面白い艶笑談、役に立つ艶笑談もあるわけだが、本当にこの人の文章は面白くないし、役に立たない。

冒頭の随筆「ヰタ・セクスアリス」は中学の時の初体験について書いたもので、相手は芸者の半玉であった。金は払っていないので、買春というわけではないのだが、立派な子孫をつくるための性交とはとうてい思えない。

この相手が好きだったわけでもなく、好きな女のことを考えながらセックスしているのだから、神聖な行為とも思えない。

※『をとこ大学』は見当たらないが、アマゾンにも菅原通済の著書が古本でチラホラ出ている。それ自体、読む価値はないと思うが、売春対策審議会の会長がどういう人物であったかを知っておくには意味があろう。ここに書影を出した『通済放談』も読んだかもしれないが、中身にはまったく記憶にない。

 

 

売春対策審議会会長は二号を推奨

 

vivanon_sentenceこれ以降、政治家の二号さんについての肯定論が延々続く。

 

 

今更のように芸者がお客をとるのが、いいとか悪いとか、それでも足りず、待合のテッパイ論までやる阿呆が飛びだすのは、毎度のことだからガマンもするが、遊びにゆきたいくせにゆかれんウップンばらしをやられるのは迷惑千万(略)、真ピル間からひらきなおられて、二号さんだが(ママ)、愛人だかは知らぬが、持っていいのか悪いのか? と詰問する阿呆ありとせば、馬鹿々々しい、そんな愚問には答えられんよと逃げるか、“それァ、イカンですな”と、軽くあしらって逃げるよりしかたがない。

が、灯ともしころともなり、一ぱい気げんのときなら、“大いに持つべし、愛人の一人や二人、二号さんや三号さんがもてんような奴に、なにが仕事ができるかい”と大いにハッパをかけるばかしでなく、事実持ってみたいと思う。

 

 

結論を言えば「愛人の一人や二人いいではないか。そのくらいの度量がないと仕事のできる男にはならない」ということだ。ここで菅原通済は、自分でも愛人を持とうとしたが、逃げられたとの話を書いている。

 

 

考えてもみることだ。奥さんが病身で、旦那がハチ切れるような精力家ともなると、どうしたって、あのほうの発散地がないことには、頭はボーッとする、カンシャクはおこす。止むにやまれん大和魂で女中に赤ちゃんをつくらしたり、つまらんみずてんにお土産を頂戴したり、売春防止会長のクセに赤線に行ったり、どのみちロクなことはない。病妻たるもの、自ら進んで善良なる二号をスイセンするほうが、どれだけ無難で賢明だか知れない。

 

 

売春防止会という団体はないので、これは売春対策審議会のことだろう(売春対策審議会はこの前年の一九五六年設置)。つまりは自分のことである。赤線はよくないので、二号を認めるべしというのがこの人の主張。また、「みずてん(不見転)」ともあって、ここでは芸者遊びも含めて「ロクなことはない」として、あくまで愛人の推奨をしている。

 

 

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