松沢呉一のビバノン・ライフ

白川俊介著『闇の女たち』から読み込めること-「闇の女たち」解説編 18(松沢呉一)-2,350文字-

貞操を守らない女を自ら制裁する白川俊介-「闇の女たち」解説編 17」の続きです。

 

 

なぜ女たちは街に立ったのか

 

vivanon_sentenceこれは拙著『闇の女たち』のテーマですけど、杜撰極まりない白川俊介著『闇の女たち』であっても、なぜ女たちがああも街に立ったのかを読み込むことは可能です。

検挙された街娼たちの前職についてこう書かれています。

 

 

一月二十八日の第一回検挙以来八月十七日まで狩り込まれた帝都の夜の女は、一三四三名、昭和八年の密淫売検挙人員六六四四名に比べれば、決して極端に多いとは云へぬ数字である。だが、“昭和二十一年度”の夜の女の特徴は、素人娘が大半を占めてゐる事実である。

例へば、六月十二日から十八日まで七日間に検挙された夜の女たち二〇五名中、元芸妓が八名で三・八%、元娼婦が六名で二・九%、過去に売笑経歴を持つとみられる女は僅か十四名といふ少なさ。また、現在、芸妓として営業中のものは八名で〇・八%といふ数字である。後は無職、事務員、店員といった所謂素人娘上がりだ。

 

 

上の数字は山門王吉『夜の女』にも出ていたはずです。

米兵がRAAに立入禁止になるのは同年三月のこと。その前から狩り込みは行われていたのだから、「RAAの崩壊によって街に街娼が溢れた」つまり「パンパンはRAAの犠牲者である」という見方は正しくありません。

今現在の職業については、205名中107名が無職。それ以外は職業がある。これについても山門王吉著『夜の女』が指摘していました。丸の内の事務員、タイピストらがいたと。

少なくとも彼女らは、仕事がないから街に立ったわけではないのです。

もっとも早い街娼の登場に関する記述は「昨年の十月ころ」のもの。敗戦からわずか二ヶ月で、外務省の焼跡、企画院の焼け跡から、深夜、女の嬌声が聞こえてくるようになったとあります。

敗戦後、皇居前広場にアベックが溢れて、戦中できなかったことをやらかしていた写真までが残っており、焼け跡のビルでセックスするのは街娼に限らなかったでしょうけど、敗戦直後から街娼たちが出没し始めたことは拙著『闇の女たち』でも確認しております。闇の煙草などの販売をする女たちが売春を始めたのが第一陣のパンパンで、丸の内や銀座で働く女たちがそれに続いたと見ていいでしょう。

 

 

数字を無視して「街娼をやるのは馬鹿女」と思いたい

 

vivanon_sentenceしかし、白川俊介は、街娼になる理由の7割が生活苦と書いています。職業があっても生活が苦しいということも当然あって、この時代、女子の給料は安いですから、事務員、タイピストらが生活苦が理由で街娼になることもあり得なくはないですけど、一般に思われるような生き死にに関わるような「生活苦」ではなかったわけです。

では、どうして街に立ったのか。白川俊介が言うように、精神異常だからでしょうか。

白川俊介はこうも書いてます。

 

 

六月十二日、夕方五時から十一時にかけて丸の内一帯で検挙した中に、秋田県で国民学校の教員をやってゐたといふ女が交じっていたり、六月二十五日、神宮外苑附近であげられた女子大生がゐたりすることもあるが、概して知能程度は低いやうである。

もちろん、高女卒とか修業とかいった一応中等教育を受けた女なども相当数ゐるのは確かだが、女学生と云ってもピンからキリまであって、余り利巧さうなのはさう多くはないといふところが実情である……(略)

 

 

パンパンの学歴、とくに洋パンの学歴は、当然のことながら、戦前の娼妓とはまったく違い、また赤線の女たちとも違う。その数字も出ています。

 

 

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