伊藤野枝と廃娼論争-栗原康著『村に火をつけ、白痴になれ』より 1 (松沢呉一) -2,817文字-
今も生きる伊藤野枝
前にチラリと触れた、栗原康著『村に火をつけ、白痴になれ—伊藤野枝伝』について書いておきます。
伊藤野枝は、それ自体面白いに決まっているわけですが、この本によって伊藤野枝という人物がいよいよ魅力を増しました。それは、著者がその思想や生き様を今のものとしてとらえようとしている点に大いに依っています。
この著者の他の文章を読んだことがないため、いつもそうなのか、あえてそうしたのかわからないのですが、この本は、伊藤野枝を描写する言葉に、ラフな著者の言葉をクロスさせる独特の文体で綴られています。
「うざい」とも言えて、私自身、しばしばそう思ったのだけれども、ここではそれが成功しています。
「過去の偉人」という扱いではなくて、その思想、生き様を今現在も通じるものとして扱おうと奮闘している。
貧乏に徹することによってこそ、人はわがままに、好きなことをやって生きていくことができる。金がなければもらえばいい。セックスをしたければ道徳や制度にとらわれることなくやればいい。
そして、著者自身が、それを実践しようとしている。大学の先生が書いたのではこうはいくまい。
そうすることによって、伊藤野枝は今この社会でもなお欠けている視点を見せてくれます。アナキズムととらえると理解しにくくなりそうですが、要するに個人に徹するってことです。伊藤野枝はアナキズムに傾倒していき、アナキストとして虐殺されるわけですが、それ以前から徹底した個人主義者でした。
制度にとらわれること、常識にとらわれること、道徳にとらわれることを嫌い、生きたいように生きることを求めました。
伊藤野枝の廃娼運動批判
自分で書いた「『買春に対する男性意識調査』批判」」を読み直すまで、伊藤野枝が廃娼運動を批判していたことをすっかり私は忘れてました。それどころか、伊藤野枝の廃娼運動批判についての長文も書いてました。忘れすぎかと。
まずその部分を『村に火をつけ、白痴になれ』で確認しておきます。
伊藤野枝は「青鞜」誌上で勃発した「廃娼論争」の契機になった原稿で、廃娼運動家たちが「賤業婦」という言葉を好んで使用することを強く嫌悪し、批判しています。
(残り 2031文字/全文: 2972文字)
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