松沢呉一のビバノン・ライフ

平塚らいてうが評する伊藤野枝-栗原康著『村に火をつけ、白痴になれ』より 2 (松沢呉一) -2,417文字-

伊藤野枝と廃娼論争-栗原康著『村に火をつけ、白痴になれ』より 1」の続きです。

 

 

 

平塚らいてうの伊藤野枝評

 

vivanon_sentenceでは、平塚らいてうは伊藤野枝をどう見ていたのか。

平塚らいてうは、宗教運動、道徳運動でしかない矯風会を強く批判しつつも、与謝野晶子に「あんたたちのやっていることは矯風会と一緒」と喝破されてしまったように、その姿勢は、いつも煮え切らないところがあります。徹底しきれないのです。

母性保護論争において、女の自立を求めた与謝野晶子と対立して、母性保護を求めたのが平塚らいてうであり、「女は国家に保護されるべきもの」という考え方から平塚らいてうは抜けることができませんでした。

このことと貞操と売春をめぐる判断は、必ずしもきれいに重なるものではないのですけど、平塚らいてうと矯風会の違いは、程度の違いでしかなかったのだと見ることも可能。

とりわけ伊藤野枝のような立場からすると平塚らいてうと矯風会は五十歩百歩だったはずであり、だからこそ、伊藤野枝の個人主義を平塚らいてうは受け入れられなかったのだろうと私は想像しています。

そのことは『村に火をつけ、白痴になれ』の記述でも、相当のところまで読み取れようかと思います。

※写真は魔子を抱く伊藤野枝と大杉栄。『村に火をつけ、白痴になれ』より

 

 

伊藤野枝を貶しまくる平塚らいてう

 

vivanon_sentenceそのことを確認するために、改めて平塚らいてうが書いた「伊藤野枝さんの歩いた道」(大正15年刊『女性の言葉』収録)を読み返してみたのですが、丁寧な言葉使いながら、また、褒めている箇所もありながら、ボロクソと言っていいくらいの内容です(この一文は伊藤野枝が生きている時に書かれたもの)。

冒頭で平塚らいてうは、伊藤野枝について書くことの躊躇を語っています。必ずや悪口になってしまうことをわかっていたからでしょうし、伊藤野枝と向き合うことが怖かったからだと思います。

しかし、いざ書き出すと、人格、振る舞い、思想までをほとんど全否定していると言っていい言葉をたびたび連ね、「人格的の訓練を欠いた一種の自然人」と伊藤野枝を評していて、手をこまねいていた様がよくわかります(「〜的の」という表現は平塚らいてうの文章にはよく出てくるもので、誤植に非ず)。

この表現に見られるように、平塚らいてうの伊藤野枝評は、思想面よりも、その人格や行動に対するものに多く割かれていて、思想もそれにつらな

るものとして語られています。そのわがままさを平塚らいてうは受け入れがたかったのでありましょう。

以下のフレーズを読むと、平塚らいてうが、伊藤野枝を信頼していなかった様子がよくわかろうかと思います。

 

一時的の気分感情以外の何ものでもないやうな軽率な、無思慮無反省な行動が可成りに多く、甚しい時は殆ど無意識的になされる無責任なものさへありました。 (略)彼女は時として私共の前に非常に粗野な、欠点の著しい、隙だらけな、むらだらけな矛盾の多い生活をしてゐる婦人として、または始末にならないほど無責任な、信頼するに堪へない婦人として現はれて来たりします。

 

ボロクソです。

 

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