松沢呉一のビバノン・ライフ

道徳に乗って復活した神近市子-栗原康著『村に火をつけ、白痴になれ』より 7(松沢呉一) -2,822文字-

誰が伊藤野枝を「淫乱」と言ったのか-栗原康著『村に火をつけ、白痴になれ』より 6」の続きです。

この回に書いたのは、「伊藤野枝と神近市子」シリーズのダイジェストのようなものです。文中に出てくる竹中労の原稿もそちらで出典を明記して正確に取り上げてます

 

 

 

神近市子はなぜ復活できたのか

 

vivanon_sentence神近市子の存在って不思議じゃないですか? 元はと言えば「大杉栄一派」であり、大杉栄を殺そうとした殺人未遂犯です。それが戦後は国会議員にまでなった。伊藤野枝とは対照的です。

この人もまた見事に世渡り上手でありまして、この辺については自身が書いたことを読むと理解できるのですけど、神近市子の著書はどっかの箱の中に入ったまま、すぐには出てこないので、ここではまたしても、与謝野晶子の言葉を見ておくとしましょう。

以下は与謝野晶子著『我等何を求むるか』(大正六年)掲載「神近市子さんのこと」より。

 

 

神近市子さんが大杉栄氏を刺したことは私を非常に悲しくさせた。詳しい動機は法廷に於ける市子さんの自白を聞かない以上、私は知る由も無いが、併し市子さんの大杉氏に対する愛情が如何に純粋であり熱烈であるかは、その思ひ迫った行為に由って十分に想像することが出来る。曾て某雑誌の上で市子さんが大杉氏との愛情関係に就て述べられた一文を読んだ時、三人の女が一人の男を共有すると云ふ不自然な愛情関係を苦痛無くして肯定して居られる市子さんの告白が、何処まで真実であるかを疑った私も、今は市子さんが其告白に示されたやうな虚偽を抛って、どの男女もその愛情が徹底して真剣であれば必ず其処に達せねばならない本然の律である一夫一婦の関係を要求するに及び、大杉氏が其れに対して、氏としての目前の立場から已むを得ず煮え切らない態度を示したのを見て、さすがに女の愚に還って、劇しい熱愛に比例する劇しい嫉妬から、遽かに取り逆上せて、怖ろしい狂的行為を実現するに到ったのであることを疑はない。私は勿論市子さんの狂的行為を憎む。それと同時に市子さんの愛情の純粋と熱烈とに同情せずに居られない。

 

 

現実に起きたことは、伊藤野枝の押しの強さもあって、大杉栄は若い伊藤野枝をかわいがり、嫉妬に狂った神近市子が大杉栄を刺し殺そうとしたって話。しかも、神近市子は、大杉栄に金も渡してましたから、その嫉妬はいよいよ燃え上がったわけですよ。「私はこんなに尽くしたのに」と。

よくいる貢女であり、そのよくある話の範囲では、ただの嫉妬狂い。

しかし、この場合は、「一夫一婦から逸脱した淫乱界の犠牲になった神近市子」という見方が成立してしまいます。与謝野晶子のこの文章がまさにそれ。この見方の上では、嫉妬も殺意もすべては純粋さ、真剣さの表現になる。「真実の愛」を求めたのに大杉栄に裏切られたのだと。

これに合致するように、大杉栄との関係は思想的なつながりではなく、真実の愛だったのだと神近市子は主張していきます。主体的に大杉栄との関係を選択したはずですが、哀れな犠牲者として生き残ったのです。女に主体性などありはしない、大杉栄が全部悪いとばかりに。

伊藤野枝を「淫乱女」とする道徳に神近市子は乗ることで生き延びました。

 

 

神近市子の厚顔さ

 

vivanon_sentence戦後は、一夫一婦の正しさを証明するサバイバーとして、神近市子は期待される役割を見事果たし、性表現の禁圧を求め、一夫一婦を唯一の回答として、そこからはみだす売買春を否定し、主婦のために、売春婦は犠牲になってもいいのだとして、売春防止法制定に邁進します。

わいせつ雑誌撲滅の論をエロ情報満載の雑誌「夫婦生活」で書くご都合主義。自分を起用する雑誌のエロはいいということだったのでしょう。「夫婦生活」は建前としては夫婦間のエロということだったので、一夫一婦を崩さないってことだったのかもしれないけれど(「夫婦生活」については拙著『エロスの原風景』参照のこと)。

これらの活動を見ると、「色欲に狂ったおまえが言うか」と突っ込まずにはいられず、事実、ツッコミを入れた人たちは多数います。

 

 

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