松沢呉一のビバノン・ライフ

工場では十二歳から働けた-『親なるもの 断崖』はポルノである 6-(松沢呉一) -2,218文字-

十八歳未満がいたのは私娼-『親なるもの 断崖』はポルノである 5」の続きです。

 

 

 

戦前は十二歳から女工になれた

 

vivanon_sentenceでは、公娼でも私娼でも働けない年齢の娘たちはどうしたのか。江戸時代だったら、子守でもやるしかなかったわけですが、近代になると、女工になる選択が出てきます。

現金収入を得る手段として、これを小作農たちは歓迎しました。前借(前借金/年期制度においては「まえしゃっきん」「まえしゃく」ではなく「ぜんしゃっきん」「ぜんしゃく」と読む)という形で、前払いで金をくれるのです。

身売り、つまり前借による年期制度は、遊廓だけでなされていたと誤解している人たちが多いようですが、この国のさまざまな産業であったことでしかありません。まずその事実から始めるしかない。どう評価するのかはその事実を知ってから。

その実情を知らないんだったら細井和喜蔵著『女工哀史』を読んだ方がよろしい。それが面倒だったら、「ビバノンライフ」の「『女工哀史』を読む」シリーズを読むとよろしい。

女工は大半が未成年で、大正十二年に工業労働者最低年齢法ができるまでは満十二歳から働けました。今だったら小学六年生。同法が施行されて以降は満十四歳から働けました。今だったら中学生です。

これらも各種データが残っていて、大正十二年まで、十二歳の労働者が各業種の工場で現実に働いていました。安いながらも前借が出ますから、親はこぞって娘を女工にしたのです。

※図版は『衛生学上ヨリ見タル女工の現況』(大正三年)に掲載されたもので、数字は千分率。

 

 

若年層の女工たちは発育が悪く、有病率が高かった

 

vivanon_sentence工業労働者最低年齢法には「満十二歳以上にして義務教育を終了したるものは此の限りに非ず」という例外規定があったため、現実には同法制定以降も満十四歳未満で工場で働いていた者たちがいました。当時の義務教育は尋常小学校であり、それさえ卒業していればすぐさま働けましたし、同法ができるまでは義務教育を終えていない十二歳も働けたのです。わずかには改善されたと言えますが、ほとんど変わっていないとも言えます。

女工の労働時間は長く、二十四時間操業の工場では深夜労働もあります。しかも、立ち仕事です。休みは月に一回程度。外出できるのはその休みの日だけ。それも届け出が必要。よって買い物もなかなかできない。外部との通信も自由にはできない。住環境もひどい。個室など望むべくもなく、一人あたり畳一枚程度で雑魚寝です。機械に巻き込まれるなどの事故も多い上に、密閉された空間で働くため、結核などの感染が多く、短時間で食事をかきこむために胃腸の病気も数多く出ました。事故や病気による死者も多数いて、感染症に罹ったために殺されたという話まであります。それでいて賃金は雀の涙です。

という話が『女工哀史』に書かれているわけですが、ここでは女工哀史でも触れていなかったことを書いておくとしましょう。

こういう環境に成長期の子どもが置かれるとどうなるかについての調査があります。

 

 

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