松沢呉一のビバノン・ライフ

どうすれば昭和三三年まで遊廓が残れたのか-『親なるもの 断崖』はポルノである 7-(松沢呉一) -2,322文字-

工場では十二歳から働けた-『親なるもの 断崖』はポルノである 6」の続きです。

 

 

 

曽根富美子の主張は貸座敷の主張

 

vivanon_sentenceここまで書いてきた娼妓の年齢についてまとめておきます。

戦前も、少女が暗がりに立って客を引いていたといった話があって、拙著『闇の女たち』でもその例を出したかと思います(あるいはカットしたかな)。浅草などでは不良少女団が闊歩していて、中には売春で金を稼いでいるのがいました。

また、戦後の狩り込みで少女が混じっていることもありました。ただフラフラと夜の街を歩いているだけでも狩り込まれることがあったため、数字だけ見ても、実際に売春をしていたのかどうかの判断はつきにくいのではありますが、若年層のパンパンがいたことは事実です。

敗戦後の混乱期はとくにそれが表に出てきやすかったとは言え、いつの時代にもそういう存在はいるでしょう。今もいます。しかし、これと、官許の公娼である遊廓とは無関係です。少女売春があるからと言って、ソープランドを批判するのは筋違いでしょう。

生理も来ていない少女を鑑札もなく雇い入れていた法律無視の貸座敷が、室蘭には特別に存在していたなんて事実はないはず。あるんだったら、資料を見せて欲しい。

むしろ、年少者が騙されて働かされる例があることを積極的に取り上げていたのは貸座敷組合です。この批判は私娼に向けられていたわけですが、その対象を公娼にすり替えたのが『親なるもの 断崖』とも言えそうです。

 

 

より重大な問題を見ようとしない人々

 

vivanon_sentence現実には、娼妓は満十八歳にならないと鑑札を得られませんでした。この娼妓の最低年齢の引き上げはしばしば議論されていて、国会にも提出されたことがあるのですが、そうしたところで、私娼に流れるだけだとして、この改正はなされることはありませんでした。

群馬県の例を見ても、公娼制度をなくしたところで私娼が跋扈するだけですから、貧困や家族制度を改善し、救済制度を拡充しない限り、この問題は解消されないことは明らかです。

また、『「女工哀史』を読む」で数字を出したように、女工のあまりに過酷な環境から、十八歳になると「まだしも女工よりましな娼妓」あるいは「はるかに女工よりましな娼妓」になる者が多かったのですから、女工の環境を改善することが先決でしたし、小作農の現実を改善することも必要でした。

にもかかわらず、道徳による表面的な解消を求める廃娼運動、とりわけ矯風会は疲弊する農村、頻発する労働争議を見ようとせず、むしろめくらましをするがごとくに公娼制度を叩きました。

彼らの運動は宗教的道徳運動です。だからこそ、伊藤野枝平塚らいてう与謝野晶子宮本百合子花園歌子らによって強く批判されましたし、有島武郎泉鏡花の小説でも、その偽善的道徳運動が批判的に取り上げられたのです。

※写真は吉田文治著『四割減給』(昭和六年)より、女工の演説風景。この本は昭和五年に京都で起きた大争議を描いたもの。著者は京都在住の労働運動家であり、この争議にも関与している。版元の更生閣は自身の出版社。写真が多数掲載されており、戦後、参議院議員になった赤松常子が女工たちを指導する様子の写真もあり。この争議の際、女工たちは工場が雇い入れた暴力団に監禁され、組合員の女工は強姦され、発狂したのもいると書かれている。どこまで事実なのか判断不能。

 

 

何もかもがいい加減

 

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親なるもの 断崖』を読む限り、曽根富美子さんは廃娼運動になんら疑問を抱かずに評価しているようです。そのくせ、救世軍についても最低限調べることをしていないチグハグさ。思いつきを適当に書いているだけでしょう。

この流れで、最低限調べることもしていないだろうと推測できる点をもうひとつ挙げておきます。

 

 

 

 

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