松沢呉一のビバノン・ライフ

幕西遊廓について調べる-『親なるもの 断崖』はポルノである 番外1-(松沢呉一) -3,235文字-

『親なるもの 断崖』を読み、幕西遊廓で検索してここに入ってきた方へ。

幕西遊廓が存在していたことは事実ですが、『親なるもの 断崖』の内容は徹頭徹尾デタラメで、前提からしてあり得ず、その上であり得ない話が連続します。遊廓に無知な人たちを相手に、あたかもあり得たように見せかけているものですから、SFと同じようなフィクションとして楽しむに留めてください。

どこがどうデタラメであるのかはこの「『親なるもの 断崖』はポルノである」シリーズで説明しています。ソースはできるだけ国会図書館が公開している資料を使っていますので、疑う方はリンク先を辿って、自分の目で確かめてください。

 

 

貸座敷の数も間違っている

 

vivanon_sentence親なるもの 断崖』にはこんなことが書かれています。

 

 

漫画の上では、この時点で昭和二年ということになっています。

これは間違いで、昭和二年の段階では二十軒以上ありました。

以下は室蘭商工会議所編『室蘭市の統計図表』(昭和十年)。

 

 

このグラフ以外に何も出ておらず、正確な数字がわからないのですが、横線は15単位になっていて、昭和三年でも二十軒以上あることは間違いない。『北海道及花街』(大正十四年)に「二十三軒位」とありますから、このグラフと一致していて、昭和二年の段階では二十四軒か二十五軒あったんじゃなかろうか。

十数軒」と適当にごまかしたつもりの数字でさえも間違っていたでござる。

 

 

なぜ幕西遊廓は衰退したのか

 

vivanon_sentence昭和三年以降、着々貸座敷の数が減っていきます。金融恐慌は昭和二年から始まりますから、これがひとつのきっかけになっていそうですが、おそらくそれよりも大きな理由があったのだろうと思われます。

なにしろ幕西遊廓では、法律に反して十一歳、十三歳を鑑札なしで働かせていたらしいですから、次々と摘発されました。また、自殺者ありぃの、梅毒の死者ありぃの、行方をくらますのがありぃので、そんな貸座敷の経営が成り立つわけがないですから、どんどん潰れたんでしょうねえ。

そんなアホな漫画家の妄想はどうでもいいとして、このグラフから現実を確認してみましょう。

娼妓数は貸座敷数と比例して、折れ線グラフの始まる昭和二年をピークに着々数が減っていることがわかります。芸妓も昭和四年以降減少傾向に転じています。

増減が激しいですが、酌婦は増加傾向にあります。さらに急速に伸びて、表を大きくはみ出しているのが女給です。カフェーの女給のことです。

この場合の「酌婦」は私娼ではないかとも思うのですが、室蘭の私娼事情までは国会図書館の資料でもよくわかりませんでした。

いずれにせよ、私娼ないしは半私娼が公娼を凌駕していったことがはっきり見てとれます。

これについては「私娼に負けた公娼-娼妓と芸妓の地位が逆転した事情 1」を参照していただきたい。

そこに書いたように、東京で私娼が伸してくるのは明治末期から。大正に入るとカフェーブームがやってきて、さらにはダンスホールもブームとなって、半私娼と言われる層が公娼の客を奪います。

名刺広告は出せたはずですが、貸座敷は誘客の広告を出すことを法で禁じられ、国会図書館の資料を見ても、幕西遊廓関係の広告は見当たらず、カフェー組合の広告しか出ていませんでした。宣伝ひとつとっても公娼は不利だったわけです。

東京に比べると、遊廓が凋落するにはずいぶん時間差がありますが、今よりずっとブームの伝達には時間がかかったものですし、行政、警察の方針も関わってきましょう。

※図版は昭和十二年版『室蘭商工名録』に出ていた室蘭カフェー組合の広告

 

 

幕西遊廓の貸座敷リストを発見

 

 

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