松沢呉一のビバノン・ライフ

白縫は自動車に乗ってやってきた-「白縫事件」とは? 3-(松沢呉一) -4,702文字-

波木井皓三著『大正・吉原私記』より-「白縫事件」とは? 2」の続きです。

 

 

 

権利を主張して出た花魁道中を「虐待」と強弁

 

vivanon_sentence前回見たように、白縫が主張する「虐待」と楼主の説明は180度違っていました。

この前年の花魁道中の際、白縫が風邪気味で寝込んでいたため、楼主は無理をしないように伝えたところ、白縫は「自分には出る権利がある」と主張して花魁道中に出ます。花魁道中に出るのは吉原を代表する存在であり、マスコミにも報じられるので、そのチャンスを逃したくなかったのでしょう。事実、この時の花魁道中は大きく報じられており、多数の絵葉書にもなって残っています。

以下は『大正・吉原私記』から、花魁道中に出た際の白縫。これもおそらく絵葉書でしょう。この時の花魁道中には複数の娼妓が出ていますが、絵葉書には妓楼名や源氏名が書かれたものがあるので、それで同定したのでしょう。そりゃ、頭が重いのはわかりますけど。

 

 

 

 

本人の希望で出たのだと説明する楼主に対して、白縫は「だって、さぞおもしろいかと思って」と言っているのですから、楼主の説明通りだったのだと判断できます。

そして、権利を主張し、ゴリ押しとも言える花魁道中を実施しておいて、一年後に、リューマチだし、風邪っぽくて寝込んでいたのに無理強いされ、重い衣裳をつけさせられて花魁道中をやったのは虐待だったと言い出したわけです。

通常だったら、救世軍は一方的に娼妓の味方をするところですけど、さすがにこれでは、救世軍は距離を置いて仲裁に入るしかありませんでした。

 

 

なぜ白縫の借金は増えたのか?

 

vivanon_sentence虐待は何年経っても虐待ですけど、自身が望んで出たものはいつまで経っても虐待とは言えず、虐待とは言えないものを一年経って言い出した事情は、角海老の楼主から語られます。

 

「白縫が新橋から来た時は八百円の前借でしたが、それが絶えずこれの母親が来て借りますので、ただいま千三百円の貸になっています。ところへ此頃悪い馴染が出来て、その入智慧で、救世軍の伊藤という士官は必ず自廃させるから行けと言われて駈け出したのです。いま千三百円も踏み倒されては、手前どもの商売はやり切れません。まことに手前どもの商売は、いざとなると弱い稼業でござんす。どうぞ救世軍におかれましても、何卒この商売にも御同情願います」

下手にこう出られると、侠気のある伊藤大尉はいささかたじたじだった。

「伊藤さん、しっかりしてください。弱いのはわれわれ囚われの籠の鳥の公娼です。楼主なんてみんな資本家階級じゃありませんか。角海老なんて吉原一のブルジョアですよ。なによ、千三百円ぽっち。罪ほろぼしに救世軍へ寄付したと諦めればいいんですよ、ネエ」

警部は憎々しげに白縫を一喝した。

「何を言うか。おまえなんか弱いどころか悪い公娼だ。まさに吉原の〈新しい女〉だぞ!」

その当時、平塚明子たちの智識婦人の青鞜派は〈新しい女〉の流行語を生んだ。

 

 

「ところへ」というのは、「そうしたところへ」の意味か、「ところが」の誤植か。

遊廓を維持したのは家族制度と道徳だった」に書いたように、娼妓の借金が減らないどころか増えることがあったのは、第一に病気になって働けないため。第二に間夫が金をもっていくため。第三に家族が金をもっていくため。そして、第四に本人の金遣いが荒いためです。

それらが複合して借金を増やすこともありましたが、この三番目が多かったことは市場學而郎の文章に出てくる楼主が、「(親たちが)のべつに無心に参る」と言っている通り。

悪質な妓楼が一部にあったのも事実として、契約に反した計算、つまりは違法な計算をしていた場合は、すかさず救世軍はそこを突きます(自由廃業というのがどういう手続によってなされていたのかについては改めてやります)。それを伊藤富士雄はやっていないのですから、この場合は間違いなく第三のケースに該当します。本人もそのことを否定していません。

沖野版によると、母親は酒癖が悪かったとありますので、一部は確実に酒代に消えたのでしょう。

借金踏み倒しの入れ知恵をしたのは相場師の男です。仕事柄世知に長け、悪知恵が働く。楼主がやめた方がいいというのに、権利を主張して花魁道中に出たことを一年経って「虐待」と言い出したのは、この相場師の入れ知恵だったのですけど、そのくらいしか角海老には文句をつけられる点がなかったということでもあります。

※この写真は以前も出している白縫の写真。『全国遊廓案内』(昭和5年)より。そりゃ、下駄が重いのはわかりますけど。

 

 

自動車の意味

 

vivanon_sentenceここで、白縫が救世軍本営に来た時のことを振り返ってみましょう。彼女は自動車に乗ってやってきました。このシリーズの一回目「今も起きているかもしれない事件」を読んで、自動車に着目した人がいます。拙著『闇の女たち』の担当編集者です。編集者はこうじゃなければいけません。

 

 

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