松沢呉一のビバノン・ライフ

今も残る二代目高尾の墓—「投込寺ファンタジー」はいつ始まったか 2-(松沢呉一) -3,291文字-

永井荷風が描く浄閑寺—「投込寺ファンタジー」はいつ始まったか 1」の続きです。

 

 

 

浄閑寺には遊女個人の墓もあった

 

vivanon_sentence夜の女界」に掲載された永井荷風著「遊女の最後」を読むと、それが遊女を代表するものではなく、「不幸の中にもよくよく不幸なもの」であったことが読み取れるようになっている。

以下、その一部を抜粋する。

 

如何にも寂(さ)びた有り様を愛でながら、橋を渡り、黒い寺門に達して、仰ぎ見ると、浄閑寺と云ふお寺である事を知る。ああ! 箕輪の浄閑寺。多情多恨の風流才子は、いまだその実景を探らずとも、已に草双紙、読本の何処かで、此の名前を知って居られた事だらう。門を這入ると例の花売る小屋がある。余り広からぬ本堂の左手から、その裏手にかけて、此処が墓地、石塔や、卒塔婆が累々として並んで居る。

叢(くさむら)の様になって居る垣の近く、また石塔の間の其処此処には、かなりに年経た、瘤多き榎木が幾株も立ち茂って、風の来る度には物悲しい声をして、その枝を顫(ふる)はして居る。先、見当たり次第の石碑の前に屈んで、すでに能くは見分らかぬ其の彫付た文字を見ると、柳生院花容童女之墓(りゅうしょういんかようどうじょのはか)と云ふ様な仏名が読まれる。又は、□□楼代々の墓とか、或は男と女の名が二ツ並べて彫てあるのも見当てられる。然し、何の石塔も二尺、三尺と計る程、高いものは無い。何れも、小さな汚いものばかりで、久しく香花(こうげ)を手向けられた事もないと思はれる。

 

 

他の本でも同様の記述がなされているものがあるが、浄閑寺には、遊女個人の墓がかつては多数あった。

娼妓が亡くなると親族が引き取る。当たり前のことである。しかし、ここまでたびたび書いてきたように、親族が引き取らないことがある。さんざん金をむしりとっておいてひどいものだ。

その場合、金を出す人がいれば個人の墓が建てられた。多くは馴染み客である。個人の墓が建てられない場合は各妓楼の墓に入れる。しかし、全妓楼が墓をもっていたわけではないため、また、妓楼としては「この遊女の骨は引き取れない」ということがあるため、その場合は無縁仏として共同の墓に入れられる。

大正時代まで、その無縁仏を葬る寺として三ノ輪の浄閑寺、日本堤の西方寺、龍泉寺の大音寺が指定されていた。

永井荷風が描写する明治時代であれば、葬られて間もない時代の遊女の墓がなお多く残っていたのであろう。間もないとは言え、十年も二十年も経てば、線香や花を手向ける者がいなくなるのは自然なことだ。遺体の引取りを拒否した親族はそこに墓があることさえ知らないし、知りたくもない。馴染み客が亡くなれば訪れる者はいなくなる。

戦後のものでも遊女個人の墓が残っていることが記述されているものがあり、おそらくこれは若紫の墓。これは明治時代に年季明け直前に、無理心中で殺された娼妓の墓。他に浄閑寺に残っていないか探したのだが、それとはっきりわかるものは見つけられなかった。管理する人がいなくなり、人集めにもならないため、すでに撤去されているのだと思う。

販売と管理で寺や霊園の運営が成り立っているのだから、墓は管理する人がいなくなれば撤去される。それでも残すことがあるのは、よっぽどの名妓の墓である。それ以外の無名の遊女の墓であれば、いずれは撤去され、慰霊塔に合祀される運命だ。

 

 

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