松沢呉一のビバノン・ライフ

泉鏡花も「投込み」を「簡素に葬られた」という意味でしか使用せず—「投込寺ファンタジー」はいつ始まったか 3-(松沢呉一) -2,489文字-

今も残る二代目高尾の墓—「投込寺ファンタジー」はいつ始まったか 2」の続きです。

 

 

 

東京に残る遊女の墓

 

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まずの補足をしておく。西方寺の二代目高尾以外にも残っている遊女の墓は他にもある。浅草永見寺には遊女玉菊の墓があるのだが、行ったことがないので、そのうち行ってこようと思う。

また、戦前のものを見ていたら、麻布大長寺には三浦屋の楼主・三浦吉右衛門一家の墓と何代目かは不明ながら高尾太夫の墓があると書かれていた。遊女として亡くなった場合は楼主の菩提寺に葬られることがあったと書いたが、その例だろう。もちろん、存在していたことさえ忘れられた無名の遊女の墓も多数あったはず。

この大長寺は八王子に移転していて、今現在、墓は残っていない模様。

※写真は西方寺にある看板

 

 

なぜ荷風は「投込寺」と書かなかったのか

 

vivanon_sentence前々回、引用した文章を見ても、夜の女界」の「遊女の最後」で永井荷風は「投げ込まれた」とは書いておらず、かつ、「投込寺」という言葉も使っていない。引用文以外でも、一切出てこないのである。

この文章は「社会の裏面」を描くものであり、その悲惨さが強調されてしかるべきものだ。にもかかわらず、どうして「投込寺」という名称を永井荷風は書かなかったのだろう。今だったら、ことさら悲惨さを強調する文章じゃなくても、浄閑寺を紹介する中で十中八九書くだろうに。

つまりは明治三十年代においては、浄閑寺の名を知る人はいても、「投込寺」という呼称はまったく知られていなかったのだろうと推測でき、永井荷風でさえも、この言葉を知らなかったとするのがもっとも合理的な説明だ。

また、遺体が投げ込まれたなんて記述もない。そういう認識がこの時代にはなされていなかったと考えるべきだろう。

とは言え、永井荷風がこの寺の何から何まで知り尽くしていたわけではないのだし、知っていながら書きそびれることもあるだろう。

※浄閑寺にある永井荷風の石碑

 

 

「投込寺」という言葉が戦前あまり使用されていない事実

 

vivanon_sentenceそこで明治時代に浄閑寺について触れたものを探してみた。こういう時に国会図書館は便利で不便。

 

 

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