松沢呉一のビバノン・ライフ

安心社会から信頼社会へ—下戸による酒飲み擁護 14- (松沢呉一) -2,584文字-

「セクハラ」という用語を堕落させた人たち—下戸による酒飲み擁護 13」の続きです。

 

 

 

安心社会から信頼社会へ

 

vivanon_sentence先日、Facebookで、専修大の福富忠和さんから、山岸俊男著『安心社会から信頼社会へ—日本型システムの行方』(中公新書)という本が参考になると教えてもらいました。

すぐに読んでみたら、たしかに「日本の特性とは何か」「米国とは何がどう違うのか」「今日本はどういう状態に置かれているのか」について、ヒントがいっぱい詰まっている内容でした。

酒の問題に限らず、このところ、私が書いているさまざまなテーマにも関わってくるので、ざっとその内容を紹介しておきます。

読むまで、タイトルにある「安心社会」と「信頼社会」という意味がわからなかったのですけど、これまでの日本は「安心社会」、対して米国は「信頼社会」とざっくりと区分できます。その意味を理解すると、社会の作られ方がクリアに見えてきます。

この本の中で著者は安心社会の典型例としてかつての農村を挙げています。日常、接点のある人たちは皆顔見知りで、気心も知れている。普段の生活では安全をことさらに確保しなくても安心していられる。ここでは、あえて他者を信頼するプロセスを経る必要がない。何もしなくても安心がそこにあり、むしろ何か異例なことに踏み込むことで安心は損なわれるかもしれない社会です。

そこからはみ出すのがいれば制裁を加えることで安心を維持している。その分、ムラの外の他者には警戒をし、時には排除する。

江戸時代であれば、この安心の中で一生を終えることができました。もちろん、天災や飢饉、疫病といった危険は除いて、ここでは人間関係から発生する危険と安全の話です。

しかし、農村の人が江戸にいきなり出てくると戸惑う。周りは知らない人ばかり。そこには安心はありません。それが今の日本社会が直面している状態です。

対して、さまざまな人が寄り集まる社会では、顔見知りだけではなく、どこの誰か、どんな人かも知らない人たちと信頼を互いに作り出していくことで安定した社会を作る。これが信頼社会です。安心はそこにあるものに対して、信頼は新たに作り出すものと言っていいかと思います。

日本が今まで作り上げてきた安心社会が終わり、これから信頼社会の建設に成功するのか、失敗するのかなおわからないというのが著者の見解です。

 

 

意外な実験の結果

 

vivanon_sentenceこの本に説得力があるのは、さまざまな実験が取り上げられていることにあって、著者自身が数多くの実験を手がけています。その実験により、考えていたことが裏付けられつつ、「え!」という結果がしばしば出るところがスリリングです。

それらの実験の結果、今まで渾然としていた「国民の特性」が局面ごとにクッキリと浮き上がってきます。

日本は集団主義社会であり、米国は個人主義社会と言われますが、実験によっては、まったく逆の性質が出てきてしまいます。匿名で行動する場合、日本人の方が個人利益に走る。いわば身勝手で自分本位なのです。

一見、常識とは矛盾する結果なのですが、このことから、日本の社会は個人個人の内的な性質から維持されているのではなくて、監視と制裁という集団のシステムによって個人の性質を抑制することで成立していることがわかります。

日本人が集団で行動するのは、社会システムがそう仕向けていただけだったのです。現実に照らせば、このことはよく理解できます。旅の恥はかき捨てで、監視のないところでは身勝手になるのが我々日本人です、

そうはわかってながらも、社会の性質と個々人の性質とを私自身、区別できていなかったように思います。

この監視の中においての個人は、その監視に怯えつつ、集団のルールに従うわけですから、集団主義的ふるまいをすることも事実であり、そこを取り出すと、「個人としても日本人は集団主義的」と見なすことがなおできますが、そういう規範が働かないところでは傍若無人になるという個の性格との関係をきれいに私は理解できてませんでした。

 

 

ムラ社会の住民は人を泥棒と思う

 

vivanon_sentenceまた、安心社会にいる人たちの方が、人を信用しているように思えますが、これも実験では逆の結果でした。

 

 

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