松沢呉一のビバノン・ライフ

廃娼運動=売防法=純潔運動—道徳派の手口 1-[ビバノン循環湯 138] (松沢呉一) -5,470文字-

急におっぱい募金関連の記事のアクセスが急増してまして、なんだろなと思ったら、おっぱい募金が今年も開催されることになったのですね。よかった、よかった。

 

 

 

 

ゾーニングされていた事実、出演者が皆納得し、参加できたことを喜んでいた事実、手を消毒した上で触れる程度であった事実、募金はエイズ予防財団に全額寄付されている事実も確認しないで、愚劣極まりない反対署名が行われ、法律を調べもしないで「違法だ」と騒ぎ立てる弁護士までが出てきた昨年の騒動に屈するようなことのないように願っておりましたので、ホッとしております。

話を聞かせてくれた出演者の一人は「どんだけいやらしい想像をしているんだろう」と呆れつつ笑ってましたが、勝手に頭のなかでエロい妄想をして、その妄想を叩いていた糞ども。最低限の恥を知る人は、さすがに今年は黙りこくることでしょう。30年くらい黙るといいと思います。

今年もとやかく言ってくるのがいたら、反論は昨年の繰り返しで十分。

以下参照。

 

「おっぱい募金」中止を求める署名の愚劣-HIV対策の妨害者

大阪市ヘイトスピーチ抑止条例可決-おっぱい募金とパターナリズム

パターナリズムが固定する差別構造-「おっぱい募金」批判の蒙昧 1

セックスフォビアが導く未来-「おっぱい募金」批判の蒙昧 2

マイノリティ表現における武器-「おっぱい募金」批判の蒙昧 3

 

こういう連中は事実なんてどうでもいいのです。気に食わないものを潰したいだけ。法律なんてどうでもいい。「刑事告訴」だと騒いで脅せればいい。こういう愚劣極まりないクレーマーたちに屈してはならない。

道徳に走る連中ってどうしてこうなんですかね。自分の道徳に反する女の意見には耳を貸さない。「差別構造があるので、女の意思は社会に作られたものだ」などと自分では気の利いたつもりのバカ発言をして、「女は意思決定する主体になれない。子どもと同じ」というパターナリズムから抜けられない典型的差別主義者であることを吐露してしまうわけです。

そして、自分に従わない女は力で潰す。弁護士のバッチをちらつかせて、ありもしない違法性で脅す。旧来の道徳の焼き直しですから、男がやるのは既得権として理解できるとして、時に女自身がそれをやる。バカフェミ、糞フェミであります。これも結婚制度内での既得権の確保ということで理解できますけどね。

バカフェミについては「共感できるフェミニスト・共感できないフェミニスト」で、「どこからどうバカが始まったのか」「なぜ日本ではバカフェミが主流になってしまったのか」について引き続き明らかにしていきますが、フェミニストに限らない道徳派のやり口について「ビバノン」では、ここまでさまざまな形で指摘してきました。

「過去にまだ書いたものがあったよな」と思ってパソコンの中を探ったら、総集編みたいな内容の長文が出てきました。「性問題研究」2号に掲載された伊藤秀吉という人物の発言を取り上げたものです。これは未発表かもしれない。公開したとしたらネットです。相手にしてくれる人は少なかったですが、こういうものをコツコツ書いてきたのであります。

ここで見ていくべきことはいくつもあるのですが、今もなおこのタイプの人たちに見事にやり口が重なっていることに気づくと思います。たとえばヒューマンライツ・ナウ。

伊藤秀吉については、「赤線の女たちを恐ろしい闇路に蹴落としたのは誰か」でも取り上げており、そちらでは「性問題の研究」5号掲載の記事を批判しているので、併せてお読みください。そっちもひどい文章です。

長いので3回に分けます。ネットで文字だけを読むのは辛いのですが、この関連の図版を探すのが面倒。すでにいっぱい「ビバノンライフ」で出してますし。そこで夜の花をテーマにした写真をあしらってみました(笑)。

 

 

廃娼運動・売防法制定運動は道徳運動であった

 

vivanon_sentence戦前の廃娼運動、戦後の売防法制定運動は道徳運動である。道徳派の間違いは、自己の信じる道徳を法で実現しようとするところにある。

それが間違いであることを知っているがために、あるいはそのままでは社会が受け入れないことを知っているがために、耳障りのいい「人権」を持ち出す。

人権が重んじられるのは当然。しかし、彼らの語る人権はまやかしである。

まやかしの人権のために、働く女たちを利用し尽くす。都合いい意見は利用するが、利用できない意見は徹底的に無視をする。歯向かうようなことを言えば、本性を剥きだして愚弄し、その存在を力で潰し、働く者の人権なんてことはこれっぽっちも考えていないことを顕にする。

彼らは、道徳のためには、都合の悪い事実を隠す。時にはウソも言う。その詐術がバレて、より適切な解決策が出てきてしまうので、丹念な議論をすることを避け、政治家にとりいって、メディアを味方につけ、一足飛びに事を進めようとする。

言い過ぎだと思う人もいるだろう。では、そのことを伊藤秀吉(ひできち)という人物を軸に確認していく。

 

 

伊藤秀吉とは何者か

 

vivanon_sentence日本性学会編「性問題の研究」(久保書店)2号(1956年2月)の特集「売春問題をめぐって」に掲載された「売春処罰法の必要」という文章がすさまじい。

著者の伊藤秀吉は、『売る売らないはワタシが決める』(以下、『売る売ら』)でも批判した人物で、戦前、廓清会の常務理事をやり、戦後、文部省の純潔教育審議会の会長となって純潔教育を進めると同時に、売防法制定にも深く関与している。

廃娼運動=売防法=純潔教育」は同じ道徳に基づくものであり、これらを分断して評価することは不可能であることを証明する存在である。

伊藤秀吉はそれぞれの運動を代表すると言ってもいい立場にいた。この人の言動を見ていくことで、これらの一環した運動の本質を見極めることができると言っていい。

公娼制度が廃止され、間もなく売防法が制定される時期だけに、無防備に本音が語られたこの文章を念入りに見てみよう。

 

 

売春婦人という者は、一般社会の通念で処理できるものではない。設備があって、比較的簡易な業務で、労銀も普通より良いからと云って、其処で喜んで働くと思ったら大間違いである。彼女等は最少の労働で最大の賃金を受けて来た売春の経験者である。収入は一カ月五万円欲しい、起きて働くなど馬鹿らしい。御飯は三度で正午が中食(たぶん「昼食」の誤植)などと誰が決めた、そんな規律は真平だ、起きたい時に起き寝たい時はいつでも寝る、奢侈で贅沢で虚栄心が強くて、倹約だの貯蓄だの端した金をアホらしい、自暴自棄で、嘘つきで、辛抱力がなくて、妬みと癖み(たぶん「嫉み」の誤植)で、人の話をまともに聞かず、素直さの少しもない連中である。斯ういう人達に労働を強いたり規律を強いたりして、半日だって辛抱しっこはない。斯ういう性格は売春婦に世界共通であって、道徳の根本であるセックスを売り物にした結果である。

 

 

よくもここまであからさまに売春する者たちを貶められるものである。改めて確認をするが、伊藤秀吉は、戦前はいかにも哀れで純情な女たちが騙され、閉じ込められ、やっとの思いで廃業し、それを立派に更生させているのが自分たちであると喧伝してきた人物だ。

戦後の言葉こそがこの人物の本音である。内心、「虚栄心の強い嘘つきで、素直さの少しもない女たち」と思いながら、その存在を利用してきただけだったのである。遊廓や赤線で、悪辣な経営者にほとんどの金を持っていかれるようなことを喧伝していたのもウソ。本当は「最少の労働で最大の賃金を受けて来た」と思っていた。

すべては自分の信じる道徳のための悪質な利用であり、「人権」なんてものは、虚偽で作り出した仮面だったわけだ。

 

 

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