堕胎肯定で発禁になった「青鞜」—共感できるフェミニスト・共感できないフェミニスト 5-(松沢呉一) -2,367文字-
「フェミニズムと産児制限運動—共感できるフェミニスト・共感できないフェミニスト 4」の続きです。
堕胎肯定で「青鞜」も発禁に
前回に続いて、日本ではどのように産児制限論が展開されたのか見ていきましょう。これを見ていくことで、日本のフェミニズムの問題点が見えてくるのです。ホントの話。
平塚らいてうについては評価できる点、できない点のどちらもあるわけですが、「青鞜」という表現の場を作り、婦人運動内部で、あるいは外部との論争を次々と巻き起こしていたことは無条件に賞賛すべき点かと思います。
その「青鞜」も何度か発禁を食らってます。栗原康著『村に火をつけ、白痴になれ』でも触れられていたように、伊藤野枝が編集長の時代、原田皐月の短編小説「獄中の女より男に」(大正4年/1915年6月号)で、堕胎罪で捕まって獄中にいる「私」が、堕胎を肯定することを語っているため、発禁になっています。
これはまさに猥褻。お国のものであり、家のものである子どもを堕ろすことを女が肯定するとは何事かと。
語り手である「私」は、「(胎児は)母体の小さな附属物としか思はれないのですから。本能的な愛などは猶さら感じ得ませんでした。そして私は自分の腕一本切つて罪となつた人を聞いた事がありません」と個人の実感を貫きます。
対して裁判官は「人類の滅亡も人道の破壊も考へない虚無党以上の犯罪だ」と怒ります。虚無党はテロをも辞さないロシアのニヒリスト革命集団のことです。
片や人類の滅亡がかかった一大事、片や付属物。
この前にあった「貞操論争」で、売春肯定とも言える生田花世の主張に対して、安田皐月(安田は原田皐月の旧姓)が批判し、伊藤野枝は貞操は男に都合のいい道徳であると生田花世に加担していたのですが、「堕胎論争」では原田皐月は一転して堕胎を肯定、対して自己決定論者のはずの伊藤野枝は避妊を肯定しながらも堕胎を否定、平塚らいてうは伊藤野枝を批判するという錯綜した論争が繰り広げられています。
一般に「産児制限」と言った時には堕胎までは含まず、「堕胎をしないために避妊を奨励」という立場が多いのですが、広くは堕胎も「産児制限」の一形態。
ついでとは言え、伊藤野枝は避妊を肯定してますし、この小説自体、避妊の知恵がなかったために妊娠してしまったということになっていて、堕胎を肯定する女を登場させることによって産児制限の知識を流布できないこの国のありようを批判しているようにも読めます。結果、発禁。
※「獄中の女より男に」はAmazonでも青空文庫でも読めます。
マーガレット・サンガーをこきおろした山田わか
こういった例はあるにせよ、産児制限は、日本の婦人運動の中でさほど重要なテーマになっていなかった印象があります。
私が知らないだけかもしれないですが、よく知られる婦人運動家で、言論だけでなく、行動においても産児制限運動に積極的だったのは加藤シヅエくらいしか思い浮かびません。あとは別文脈で名を残した九津見房子が産児制限運動家として活動していたくらいかと思います(この人は次回以降再登場します)。
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