米国型女権主義と北欧型母性主義の対立—共感できるフェミニスト・共感できないフェミニスト 9-(松沢呉一) -3,401文字-
「母性保護論争とエレン・ケイ—共感できるフェミニスト・共感できないフェミニスト 8」の続きです。
エレン・ケイの母性保護主義
続いてのエレン・ケイの主張は、「男と女は等しく権利を有すべし」という米国型女権主義に対する批判として出てきます。
エレン・ケイは男と女は対等にはなれないと考えていました。「女らしさ」があるためです。母性です。女は男より劣っているのではなく、男とは別の特性を持つのであって、女自身がそれを自覚し、社会がそれを評価することを求めます。
対して米国型女権主義は、母性の役割である育児を、行政や諸団体の施設で軽減し、女は働くことを実現します。これをエレン・ケイは批判します。家庭内の仕事に向く母性を持つ女がその能力を外に向けるのは、ベートベンやワグナーが機関士をするのと同じように悲しむべきことだと。ホントにそう書いてます。
託児所等の施設ができたところで、女には妊娠、出産という労働があります。家事労働もあります。それに加えて工場なりなんなりで働かなければならないとなると、結果、女の負担は増えるだけであって、どこまでも対等にはなれないというのがエレン・ケイの米国型婦人運動への批判です。
エレン・ケイは仕事だけでなく、女の社会的活動自体を否定し、家庭で自分の特性を活かすべきだと考えていました。エレン・ケイ自身、積極的に執筆や講演に従事するようになったのは晩年のことですから、出産、育児を終えれば社会に出ていっていいのだと考えていたのだと思います。女はまず出産と育児を優先してやるべきってことです。
エレン・ケイが求めたもの
エレン・ケイの文章は、翻訳のためではなく、もともとそうなのだと思うのですが、趣旨がわかりにくい。そこで、一連の主張を私なりにまとめると、以下のようになろうかと思います。
男女は精神と肉体が一致した恋愛に基づく結婚をするのが理想。恋愛が終了するとともに結婚も終了し、女は女の意思で離婚をする権利を持つ。しかし、女は母性があるため、社会進出をすべきではなく、経済的には夫に依存をするしかない。そこで、「霊肉一致の結婚+母性重視+女の決定権拡大」という考え方を実現するためには、育児に対して国家は経済的な援助をすべきである。これが実現することによって既存の結婚制度は終了する。
たとえぱ妊娠中に夫が浮気をして妻が離婚したいと考えても、出産、育児の負担を考えると離婚は容易ではない。ベートーベンが作曲活動を放棄するがごとくに女が子どもを託児所に預けて、外に働きに出るのは悲しむべきですから、離婚しても、妊娠と育児にかかる期間は国家が完全に保護することを求めることになりましょう。
つまり、エレン・ケイの主張は男個人からの依存から逃れるには国家に依存するしかなく、それによって恋愛結婚の完全な実現を求めたものと言えるのではないでしょうか。
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