宗教、思想、道徳が人を抑圧する—エレン・ケイの思想(のある部分だけ)を再評価する 2-(松沢呉一) -3,083文字-
「伊藤野枝が闘った道徳をいまなお信奉する人々—エレン・ケイの思想(のある部分だけ)を再評価する 1」の続きです。
エレン・ケイが批判した考え方
エレン・ケイが『恋愛と道徳』の冒頭で述べている「社会の安寧秩序は必然に個人の犠牲によつて成就せられると云ふ観念」に対する批判は一世紀経ったいまなお有効です。社会の秩序と個人の幸福が衝突する場合は、その調整をする必要があり、結果、社会の秩序が優先されることもありましょうが、最小限に留めるべきです。
もうひとつ今も有効なエレン・ケイの主張は、理想主義に対する批判です。「母性保護論争とエレン・ケイ」で引用した「理想主義者とは恰かも重き鉄槌を振りまはし義務と云ふ概念の砂礫を道路に打ち込み以て他人の旅行を容易ならしめんと企てるが如き人である」の部分。
理想を掲げ、それを追い求めるのは個人の自由。しかし、それを他者に強いることは、他者が他者の理想を選択し、追求をすることの妨害になるという指摘です。
エレン・ケイのこのふたつの考え方は共通しています。個人の上に「社会の安寧秩序」を置くか「理想」を置くかが違うだけで、上の階層に置いたものによって個人を犠牲にしていい、あるいは個人を犠牲にすることで上位の理念が達成されると考えるのは同じです。それをエレン・ケイは強く批判しました。
伊藤野枝もこの部分だけを取り出せば同意できたはずです。この点については、伊藤野枝自身が誰よりも現実を覆そうと闘っていましたから。伊藤野枝は無政府主義に傾倒していきましたが、これはアナキズム固有の考え方ではなく、民主主義の基本です。
今から一世紀前に、婦人運動は米国型であれ北欧型であれ、この点を踏まえてました。そう考えていかないと、女は自己決定ができない。「女はこうあるべし」という上位の考え方によって、「恋愛の自由」「結婚の自由」「離婚の自由」を獲得することが妨害されてきたのです。マーガレット・サンガーにおいては「避妊の自由」も。
しかし、日本の婦人運動はこの部分を軽視して、エレン・ケイをただの良妻賢母を強化する思想ととらえたわけです。そこまで翻訳されていたのですから、日本にも考え方自体は入ってきていたんですけど、定着はしませんでした。
そのため、セックスワーカーの権利主張がその延長上にあることがこの国では見えにくく、昨日今日出て来たかのように誤解して「リバタリアニズムだ」などと頓珍漢なことを言い出すのが出てきます。歴史を知らないヤツらはこれだからな。
※アムステルダムの飾り窓エリアの入口には、世界のセックスワーカーに敬意を表した銅像が立っているんですってよ。オランダはすごいな。個人の自己決定を尊重する国です。伊藤野枝のような人物がいたとして、今に至るまで墓もおおっぴら建てられず、「淫乱女!」と罵倒されるようなことは決してないでしょう。写真はWikipediaより
宗教と旧来の左翼の共通点
エレン・ケイ自身が、「女は出産と育児に専念するのが理想であり、社会進出すべきではない」として、これに従わない個を犠牲にしたという見方もできてしまうので、「そこはどうなんだ」って話でもあるのですけど、それはなかったことにして話を進めます。そっちはどのみち今の時代に通用しない論でしかないですから。
エレン・ケイが批判した「理想主義者」の中には宗教家が確実に含まれていたことが想像できます。
他者の生き方に口出しをしないではいられない人たちの典型です。どの宗教のどの人も押し付けがましいわけではないですから、「一部の宗教信者」としておきますが、「神は、かくかくしかじかの社会を願い給うた」と理想を掲げ、個を抑圧していき、信仰をしない者を時に殺戮する。
そんなことはその神を信じる者たちの間だけで有効。仲間内でやっとけ。
旧来の左翼もまたすべてではないですが、同様の考え方をしがちです。自分の思想と合致する理想を掲げて個人を否定する。それに同意しない者を時に殺戮する。
エレン・ケイの時代から今に至るまで、さまざまな国で繰り広げられてきたことです。それも仲間内でやっとけ。
個人として理想を信じるのは勝手。それに沿った生き方をするのも勝手。頑張ってください。しかし、それを他者に強いるのはただの傲慢、さらには法といった強制力のある規範で実現しようとするのは全体主義です。
それぞれがそれぞれの理想を追求できる社会にするには、他者に介入をしないことが求められます。まして、法で規制し、「正しい生き方」を強いるべきではない。
※エレン・ケイの母国スウェーデンにも、セックスワーカーと元セックスワーカーによる団体「Rose Alliance」があります。すでに説明したように、スカンジナビア地域はもともとセックスワーク・マーケットが小さい。これは福祉政策と男女平等政策、キリスト教の禁欲主義が根付かなかったことが理由とされています。フリーセックスなんてことが言われ出す1960年代以前から、この地域では婚姻外セックスOK。夏至祭を見ればわかりましょう。もともとそうなのです。日本もそうだったのが、明治以降、ヴィクトリアニズムと生殖の国家管理が合体して、そういった習俗が潰されていくと同時に、売春をも国家が管理する体制が続くわけですが、スカンジナビアはそうはならず、第二次世界大戦以前も以降も、「ソ連よりも売春が少ない地域」として知られておりました。ソ連やヨーロッパ各国を見て回った大宅壮一もそう書いています。そのため、おそらくセックスワークの権利を主張する人たちも少ないはず。だから、北欧諸国は暴走して買春処罰なんてことをやって失敗したわけです。戦前、矯風会は、この地域を視察しているのですが、スカンジナビアを真似したいんだったら、まずは性表現、性行動を抑圧するヴィクトリアニズムを排除すべし。矯風会こそいらん。
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