松沢呉一のビバノン・ライフ

マッキノン、ドウォーキンらの正体—マリアンヌ・メイシー著『彼女のお仕事』を推薦する 1-[ビバノン循環湯 169] (松沢呉一) -4,885文字-

性表現やセックスワークの規制と闘う女たち」で、マリアンヌ・メイシー著『彼女のお仕事』を取り上げています。ほんのちょっとしか書いてないですが、読んだのは16年も前のことです。「いい内容」ということははっきり覚えていたんですけど、具体的にはほとんど覚えていませんでした。

自分が書いた古い原稿を発掘していたところ、この本についての長い書評を書いてました。現在は消えてますが、2000年にネットに出したものです。『売る売らないはワタシが決める』を出して間もない時期のことです。これまた私の言っていることは今とほとんど変わってません。今なおドウォーキンを信奉する腐れフェミニストがいますから、これを出しておく意味もあるでしょう。この辺については、新たに書かなくても、古いものを出しておけば十分かもしれない。

マリアンヌ・メイシーの著書はこれ一冊ですが、その後もライターとしてセックスワークに関する執筆を続けているようです。

なお、引用部分を見ていただけるとわかるように、この翻訳でも「今は使わない女言葉」が多用されています。これについては「プッシー・ライオットの新譜「Straight Outta Vagina」と女言葉の不自然さ」を参照のこと。そこにも書いたように、女言葉は発言者の性別を明示するためには便利ですから、「実際の言葉遣いと違う」などと突っ込まれようのない翻訳ではその便利さに頼るのは理解できるのですが、性的役割を否定する本では使うべきではなかったのではなかろうか。

 

 

セックス神話と闘う人々を描いた本

 

vivanon_sentenceマリアンヌ・メイシー著/阿尾正子訳『彼女のお仕事』(原書房/1997)を読み、是非とも皆さんにも読んでいただきたくなりました。

昨年、本屋で見かけてなんとなく買い、そのまま積んでおいたものなのですが、買った時と同じように何の気無しに読み始めたら、これが大変素晴らしい内容なのでした。古い本ばかり読んでいる私でありますが、たまには新刊も読まなくちゃ(私にとっては、三年前に出た本でもバリバリの新刊です)。

この本は、オナニー指導者の女性、ポルノ映画を監督する元ポルノ女優、ストリッパーの男女、SMの女王様などなどに取材したものです。著者は高みから眺めて論評してみせるのでなく、彼らと同じ視点から語ろうとします。

「取材者は対象と同じ視点をもってはいけない」なんてことを言う人がよくいますが、こんなん、ケースバイケースであって、とりわけ性労働においては、高見から見下ろす視点によって、どれだけ現実が見えなくされてきたのかを考えれば、はっきり間違いであると断定してもいいのではないか。

見えなくされているがために、あえて同じ視点をもたなければ見えないことはたくさんあって、そうすることで客観性を失うような人は、その程度の能力の人ということでしかないでしょう。こんなことを言いたがる人は、同じ視点をもてるほど取材力がないこと、同じ視点を持つ勇気がないことの言い訳をしているとしか思えません(こういう執筆スタイルについても著者自身が触れてます)。

本書の前に彼女は取材のためにエスコートと呼ばれるコールガールの志願者のふりをして面接を受ける潜入取材をやっており、本書でも女王様を体験したり、買春する女性のふりをしてエスコート男性の取材もしているのですけど、そこでも取材者の立場が崩れないように高みにい続けようとする、ありがちな取材者のいやらしい客観性はなく、その対象を愚直なまでに知り、理解しようとしています。

といった書き手の視点に共感できるだけじゃなく、本書には「性的役割とセックス神話がセックスをダメにする」という考えが一貫して流れています。ここに登場する人々は単に性にまつわる労働を選びとったというだけではなく、それらのセックス神話と闘う人々として描かれている点にも大いに共感しました。

また、この本が優れているのは、それを否定する人々の意見をも紹介し、その意見が如何に狭量で偏見に満ちたものであるかをあぶり出す構造になっている点にもあります。とりわけ、キャサリン・マッキノンとアンドレア・ドウォーキンに対する批判は強烈です。

 

 

マッキノンとドウォーキンはただの性的保守である

 

vivanon_sentenceキャサリン・マッキノンやアンドレア・ドウォーキンといったポルノ禁圧を進める米国の「フェミニスト」たちを支持する人達が日本にもいます。特にオカルト系フェミニストにはよく見られます。「オカルト系」というのは、現実を無視して、論理にならない飛躍を駆使して妄想を広げるタイプの人たちのことです。自分が安心できるファンタジー(妄想と言ってもかまうまい)を現実の上位に置く人々です。

本書の特に3章「セックスとポルノグラフィ」に登場する人々は、そして著者自身も繰り返しマッキノン、ドウォーキンを批判しています。性行動、性表現を禁圧する、すなわち「性の神話」を頑なに守ろうとするのは、フェミニストであるためなのでは断じてなく、彼女らの内実が性を嫌悪する性的保守派だからであることをここでは明らかにしています。

 

ここ数年にNCACを訪れたひとの多くは、メディアの検閲問題のあつかいに不満をもっていて、とりわけ、アンチポルノ派を「フェミニスト」と呼ぶマスコミの態度をなんとかやめさせたいと訴えている、とカッツはいう。

 

NCACは「全米反検閲連盟」のことで、リネア・カッツはここの理事です。

私が常々強調しているように、売買春を否定するのは、人権派だからでもフェミニストだからでもなく、性の抑圧者だからです。これと同じく、アンチポルノ派はフェミニストとしてポルノに反対しているわけではないのです。

現に彼らを最も激烈に批判しているのもまたフェミニストたちであって、マッキノン、ドウォーキンらをフェミニストとして扱うことはフェミニストを誤解させることになります。

ポルノ禁圧のために、堕胎反対のキリスト教グループとさえも手を組むマッキノン、ドウォーキンらの実態については、サディストであるフェミニスト、パット・カリフィア著『パブリック・セックス』(青土社)で、さらに激烈な批判がなされていますので、こちらも是非読んでいただきたいところです。

 

 

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