松沢呉一のビバノン・ライフ

自分しか愛せない人たち—なぜ他者の性を否定しないではいられないのか 4-(松沢呉一) -2,595文字-

他者を否定する武器としての愛—なぜ他者の性を否定しないではいられないのか 3」の続きです。

 

 

自己愛は他者を否定する

 

vivanon_sentence同性愛を蔑視する人には、自分が同性愛者であることをわざわざ言わない。そのため、周りに確実に存在している同性愛者に気づけない。「ゲイやレズビアンの知人が一人もいない」という人は、避けられている存在だってことです。クラスに一人はいるのに気づけないだけ。そのために、現実を知ることができないまま、嫌悪を語る。そしていよいよ避けられる。

〈自己愛〉の構造 「他者」を失った若者たち (講談社選書メチエ)これと同じことがセックスワーク否定論者にも起きます。「AVで女の人が感じてるのは嘘です!」「自分の意思で性風俗で働く女なんているわけがありません。あれは男に強制されているのです」なんて言ってのける阿呆に、「AVに出たことがある」「性風俗で働いている」と言いますかって。そんな人の前からは黙って去るだけ。

「女は愛のないセックスで感じることはできないんです」なんて言う人に、誰が好き好んで、行きずりのセックスを楽しんだこと、陵辱もののビデオで毎夜オナニーしていることを告白しましょうか(こういうAVやエロ漫画が好きな女子が多いことさえ想像できてないでしょう)。

「おっぱい募金」の際もそうです。反レイシズムの運動の中で、そういう話ができる人たちの間では、以前から、自身が元セックスワーカーであったこと、家族や友人にセックスワーカーがいることなどを語り合っていたのですが、そういう話を受け入れられない人たちにはもちろんそんなことは言いませんから、そういう人たちが極々身近にいることさえ気づかないまま、セックスワーカーの意思を否定するようなことを言うのが出てきてしまって、呆れました。

私は、そういう連中とは絶縁しましたが、こっちチームは引続き仲良くやっています。

こうして、他者を拒絶する姿勢が他者を見えなくして、断絶された世界でしか通用しない「愛」が「愛」だと思い込み、他者を否定し、攻撃するのであります。

 

 

伊藤野枝や花園歌子が予感していた道徳としての「愛」

 

vivanon_sentence「愛」を武器にして他者を否定したい人たちは、一度ハプバーにでも行けばよろしいのにね。女子の料金は安いか、タダだったりしますし、見物だけでもできます。

彼氏や夫以外の男とその場限りのセックスをしに来ているのがいますが、そこにはやっぱり愛があるとも言えます。愛に満ちた世界。

それを知ろうともせずに、自分を基準に他者を語ろうとする。その結果、「愛のないセックスも気持ちがいい」「愛のないセックスだからこそ気持ちがいい」「複数の相手を愛せる」「セックスで愛が生ずるのだから、行きずりでも愛がある」「金をもらうから自分を晒せる」とする女たちの現実を愚弄することになる。

「私は一人の相手しか愛せない。その相手としかセックスができないし、感じない」という主張はご自由に。しかし、それは「私」という主語で語るべきことです。「私は私が言うところの愛が必要だ」「私は私が言うところの愛のないセックスをしない」と。なのに、「女は愛が必要だ」「女は愛のないセックスをしない」と自分を基準に女のすべてを決めつけ、他者を否定する。

これこそがモノガミー神話の奴隷であり、そこからはみ出す女を制裁し、時に淫婦、異常者として扱う家父長制道徳そのものであることも気づけない。鈍感すぎ、バカすぎです。

一世紀ほど前に、家制度に基づく結婚と対抗するものとして「恋愛結婚」「霊肉一致」が掲げられたことは理解できるのですが、「愛」は新たに女を抑圧する道具に転じたのです。

これは伊藤野枝や花園歌子が嗅ぎつけていた新たな道徳としての愛でしかない。恋愛は個人のものであり、社会がそこに価値を付与するものではないのです。

だから、日本のフェミニズムは伊藤野枝の言葉とちゃんと向き合わなきゃダメです。それを切り捨てた平塚らいてうを崇めるだけじゃなく、平塚らいてうの負の遺産を清算しましょう。自分らでそれができないから、フェミニズムはダメだとされてしまうのです。なんでエロライターのワシがやっとんじゃ。

※どんな映画か知らんけど、『愛の奴隷』ってことで。愛の奴隷を自ら選択するのもまた自由として、人に強いてはなりません。

 

 

性の不安や恐怖を他者否定で解消したがる迷惑な存在

 

vivanon_sentence前回書いたような愛の奴隷に対して、花房観音さんの以下の指摘は的確です。

 

ただ、彼女があそこまでムキになったのは、彼女がAVのセックスの「本気」に怖がっていたんじゃないかとも今は思う。セックスに愛がないと感じないと思い込まなければ、彼女の中の何かが揺らいでしまうのではなかったのか、と。人が、何かを過剰に攻撃するのは、その対象に脅えている時だ。同性愛を嫌悪する男性なんか、モロにそうだ。女同士で快感を味わえるのなら、そこに男の存在は必要じゃなくなるから、「男」というアイデンティティに依存している人間ほど、レズビアンを受け入れない。女性を支配することでしか男としてのアイデンティティを保てない人間は、男同士の性的関係を嫌悪し攻撃する。

彼女がAVのセックスは愛がないから感じないと強く言い張ったのは、そこに彼女が脅えているものが存在するからだ。彼女はおそらく恋人とのセックスに愛があると思いたいのだ。実は不安なのではないのだろうか、恋人とのセックスが。

 

 

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