松沢呉一のビバノン・ライフ

映画から? ストリップから?—「本番」がセックスの意味になった経緯 1-[ビバノン循環湯 190] (松沢呉一) -2,873文字-

これは「実話ナックルズ」の連載に書いたもの。十年は経っていないと思います。

こういうのはいざ調べようとしても、簡単には資料が見つからないものです。そのことを気にしながら古いものを読んでいき、何か見つけたらメモをとり続けていくしかなく、ある程度のことがわかるまで年単位かかります。やっとわかったからと言って、さして興味を抱く人はおらず、ちいとも報われないタイプの原稿です。二回に分けます。

 

 

 

本番映画が始まりか?

 

vivanon_sentence本番」という言葉がセックスの意味で使用されるようになったのは、いつどこからなのかという話が時々出る。

大島渚監督「愛のコリーダ」(1976)が日本初のハードコアポルノとして話題になり、以降、役者が実際にセックスをしているものを「本番映画」と呼んだ。武智鉄二監督「白日夢」(1981)「華魁」(1983)などが知られる。ピンク映画でも前貼りをつけていた時代には、それだけでも大いに話題になったわけだ。

芝居や映画で使用される「本番(リハーサルではないという意味の)」という言葉がセックスに転じたと考えるのは無理がない。そのため、「『愛のコリーダ』からではないか」という人もいるのだが、ストリップショーで「本番ショー」という言葉が使われるようになったのは、これよりも早い。

そこで私はストリップからだろうと長らく思っていたのだが、古い雑誌を読んでいくうちに、ほぼその用法がどう発生し、定着したのかを確定させることができたので、その経緯を見ていくことにしよう。

 

 

トルコ風呂が乱立した時代

 

vivanon_sentence昭和二六年四月に銀座にオープンした「東京温泉」には客が詰めかけ、あちこちに同様の施設ができる。「東京温泉」の売りはミス・トルコと呼ばれるマッサージ嬢であり、面接にはミス・トルコ志望者が詰めかけた。

昭和二十年代のトルコ風呂の様子については、ユーモア作家・玉川一郎の『恋のトルコ風呂』(一九五二年/昭和二七年・東成社)を読むとよくわかる。表題作は二十ページにも満たない小編で、二八歳で童貞の主人公がトルコ風呂に行ったら、同じアパートに住む女がミス・トルコとして現れ、ここから恋が芽生えて結婚するという、たわいもない話である。

舞台は浅草の「ハッピィ・トルコ」。この年、浅草に「新世界」というトルコ風呂がオープンしているので、そこをモデルにしたものかもしれない。

今も形だけソープランドに設置されているスチーム風呂(本の表紙にも描かれている)に入ったあと、短パンと大きなブラジャーをしたミス・トルコに、体をマッサージしてもらう。

お色気を売りにしているところがあったにしても、ここに登場するミス・トルコという職業は、街娼や赤線女給とはまったく違っていて、喫茶店のウェイトレスのようなイメージである。水商売の女ほどもスレておらず、むしろ純粋無垢な存在としてさえ描かれているようにも見える。

現実に純粋無垢だったかどうかはともあれ、「東京温泉」がミス・トルコを看板にして、スチーム風呂を設置したトルコ風呂を成功させたことを契機に、このような「健全なトルコ風呂」があちこちに登場していて、のちのトルコ風呂のイメージでとらえようとするととんだ誤解をする。

だからこそ、私は「東京温泉」をトルコ風呂の元祖とする見方に異を唱えているわけだ(詳しくは『エロスの原風景』参照)。トルコ風呂は戦前から日本にも存在していた。また、エロサービスのあるトルコ風呂も、小規模、かつおそらく短期のものながら、「東京温泉」以前から存在していたことはほぼ間違いない。戦前から、上海のトルコ風呂の話は日本にも伝わっていたため、そのエロイメージを利用した宣伝で成功したのが「東京温泉」であり、その内実は今の健康ランドに限りなく近い。

※「東京温泉」の成功で、錦糸町駅前にできた巨大ビル「東京新天地」(今はLIVINという名称もついている)の中にも、「東京温泉スタイル」のトルコ風呂が入っていた。現在はサウナ「楽天地スパ」がある。

 

 

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