アイドルのフィクション・チャルガのフィクション—アイドルって面白い 4(松沢呉一) -2,484文字-
「BiSH「オーケストラ」はなぜ可能だったのか—アイドルって面白い 3」の続きです。
歌のフィクション性
虚構性という言葉はネガティブなイメージがつきまとうため、ここではフィクション性という言葉を使用しておきますが、前回書いた「BiSHが女による女への恋心をなぜ歌えたのか」の理由をざっくりまとめると、歌詞のフィクション性だと言えようかと思います。
歌い手に憑依することはあるにしても、「オーケストラ」は、歌い手個人の中から出てきているわけではない。BiSHはいわば役者であります。PVはさらにメンバーとは乖離したフィクションです。
PVやステージで、女同士の関係を表す肉体的表現をメンバー自身がやっていても、なおフィクションです。腕を抱えるポーズが私は好きでしてね。グッと来ます。
役者が「私はゲイです」と告白したり、「同性婚賛成です」と表明することよりも、ゲイの役を演じることの方がハードルが低いのと同じです。性格の悪い役を演じると、本人もそうだと錯覚する人がいるように、ゲイだと誤解する人がいるかもしれないですが、役作りを本人そのものだと錯覚する人はバカにされておしまいでしょう。
ポルノ漫画『親なるもの 断崖』を史実だと錯覚するようなアホと同じ。深夜ドラマの言葉遣いに難癖をつけるアホと同じ。そんな連中には「アホ」と言ってやればいい。
アイドルだから、BiSHだから
その点、歌の内容が歌手自身の体験、実像なのだと思われやすいジャンル、そう思われやすい個人ではフィクションを歌いにくい。西野カナも自分から遠く離れたフィクションは作りにくい。
「西野カナはシンガーソングライターだからできない」と言い切ってしまうことはできず、曲単位で、自立した世界を作り込んできた人なら、自身が曲を作っている人でもフィクションは可能かと思います。中島みゆきは可能かもしれない。井上陽水も可能かもしれない。
そして、アイドルではこれが容易です。アイドルはフィクションが可能だとしても、「オーケストラ」のような曲は「BiSHだから可能」と言うべきでしょうけどね。現に他に誰もやってないですから。
もう一回埋め込んだれ。
いい曲だなあ。泣けるなあ。
チャルガのフィクション性
実のところ、歌におけるフィクションが思い切り表現されているのがチャルガなのです。
つっても、歌詞はようわからんので、映像でそのフィクションを楽しむだけですけど。
チャルガのことをもっと知るためにキリル文字を覚え(ブルガリアでは今もキリル文字を使用)、さらにはブルガリア語のテキストや辞書を買ってきたのですが、そう簡単にはマスターできず、勝手な推測をして楽しんでいます。
チャルガという音楽に興味のない人も、音楽におけるフィクションの面白さを楽しんでいただけるよう、いくつか例を挙げます。
先日リンクしたこの曲を改めて見てみましょう。
。
ヤネヴァが歌手を辞めてインドかどっかで結婚することがわかって、ガレナがアジスに電話で「どうしよう」と相談するところから始まって、ガレナは「とにかくあっちに行ってくるよ」ということになって、ヤネヴァの後を追います。いざそちらに行ったら、ガレナもヤネヴァを止めることはできないことがわかって結婚を祝福をする。
といったストーリーだろうと思われます。自信はないけれど、なにかしらのフィクションが展開されていることは間違いない。歌詞とはまた別に映像が作られている可能性が大ですが、歌手のガレナ、ヤネヴァ、アジスが現実のまま、フィクションに突入していく。
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