林芙美子自身の言葉遣い—女言葉の一世紀 6-(松沢呉一) -3,703文字-
「林芙美子『放浪記』に見る女言葉—女言葉の一世紀 5」の続きです。
林芙美子自身の女言葉
前回の例の中でも、林芙美子自身の言葉遣いがある程度はわかりますが、彼女の言葉には相当に幅があります。
その幅の広さを見せる例を取り出します。
「すいとんでも食べましょうか。」
「私おそくなるから止しますわ。」
青年は長い事立ち止って汗をふいていたが、洋傘をくるくるまわすと、それを私に突き出して云った。
「これで五十銭借して下さい。」
私は伽話的な青年の行動に好ましい微笑を送った。そして気もちよく桃色の五拾銭札を二枚出して青年の手にのせてやった。
「貴方お腹がすいてたんですね……。」
「ハッ…………。」青年はほがらかに哄笑した。
「地震って素的だな!」
これは関東大震災のあと、「私」が路上で声をかけた青年とのやりとり。彼は行き場をなくしていて、どうやら腹をすかせていて「すいとんでも食べに行きませんか」と誘ったようで、対して「私」は会ったばかりの男に丁寧に断ったところです。
※写真はWikipediaより林芙美子
男に対する言葉
以下は同じ工場で働く松田という人物のこと。
本当はいゝ人なんだがけちでしつこくて、小さい事が一番嫌いだった。
「私は自分が小さいから、結婚するんだったら、大きい人と結婚するわ。」
いつもこう言ってあるのに、此人は毎日のように遊びに来る。
松田は「私」に求婚をしています。「小さい」というのは肝っ玉のことではなく、身長のことです。
強く断りたいのですが、「私」は松田から借金をしています。こうも嫌っているくせに、金銭的に追いつめられると、「松田と結婚するのも悪くないか」と思い始める「私」です。
ここでははっきりと断っている内容ですが、自分に負い目がありますから、下手に出て「-わ」です。
林芙美子自身の乱暴な言葉
以下は工場勤めをしている時の下宿での描写。
「お芙美さん! 今日は工場休みかい!」
叔母さんが障子を叩きながら呶鳴っている。
「やかましいね! 沈黙ってろ!」
私は舌打ちすると、妙に重々しい頭の下に両手を入れて、今さら重大な事を考えたけど、涙がふりちぎって出るばかり。
「やかましいね! 沈黙ってろ!」は「私」の言葉で、これは叔母さんに聞こえないように一人ごちたものかとも思われますが、障子のすぐ向こうに叔母さんがいるのですから、聞こえるように言ったものかもしれない。どちらにしても乱暴で、これは女給ではなく、工場で働いていた時代だからか。
男関係や懐具合にも関わっているので、単純には言えないのですけど、『放浪記』においては前半の方が言葉が安定していて、生活が荒むとともに言葉も乱暴になっていく傾向がありそうです。
(残り 2805文字/全文: 4045文字)
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