悲しい屍姦—名古屋で出ていた雑誌「旅の風来坊」より-[ビバノン循環湯 205] (松沢呉一) -2,925文字-
「女学生の桃色遊戯集団『小鳥組』」に「坂田山心中」(またの名を「大磯心中」)が出てきました。続いて「土葬の村」。たまたまのつながりですが、こうなったら、屍姦の話を出さないわけにはいかないでしょう。
前半は「東スポ」の連載に書いたものですが、エグい話なので、ボツになったかもしれない。後半はたぶん「Ping」の連載に書いたもの。合体させました。
リアリティがなくなった変態
古い雑誌によく出ていて、今はまったく出ていないエロ実話がある。屍姦である。
そういうマニアは今でもいるのだろうが、殺人とカップリングでやらない限り、今の日本では実行する機会がまずない。ところが、土葬の時代はそういう犯罪が現実にあったらしい。
大正末期から昭和初期にかけて、性科学雑誌がいくつか出されていて、そのひとつである「性公論」(性公論社)大正十四年二月号に青木純二「墓場を発(あば)く男」という一文が出ている。著者は警察関係者のようだ。
明治時代の話。福岡県のある村で、毎晩のように墓場が荒らされる事件があった。決まって女の墓である。
当時は「人間の脳みそを食べると肺病が治る」と言われていたため、肺病患者の仕業かと思われたのだが、頭が割られた様子も、内臓が取り出された様子もない。
「狐の仕業だ」「鬼だ」「魔物だ」という噂が広がるにいたって、福岡警察署の巡査部長は、現場を取り押さえようと、一人で墓場で犯人が来るのを待ち構えていた。
やがて若い男が提灯をもって墓場の中へやってきた。あたりをキョロキョロと見回すと、埋葬されたばかりの墓を掘り始め、棺桶の蓋を開けると、中から女の死体を抱き上げた。
そして、なんと男は…(以下、伏せ字になっている)。現場を確認した巡査部長は暗闇から飛び出して犯人を逮捕。犯人は地元の二十九歳の男だった。精神的な病を抱えてはいたが、おとなしい男だったため、「まさか」と誰もが恐怖におののいた。
彼が自白したところによると、死体の臭いがたまらなく好きで、その臭いを嗅ぎながら…(以下、延々と伏せ字)。
旅とエロの雑誌
上の話を読んでも、気味が悪いだけで、なんの共感もないし、エロい気分にもならない。
屍姦したことのある人は身の回りにはいないため、理解してあげなければならない状況に立たされたことはこれまで一度もなく、屍姦する人の気持ちは全然わからない。妊娠する心配はないにしても、相手は死んでいる。怖いじゃないですか。場合によっては腐っていたり、ウジ虫が涌いていたりもする。気持ち悪いじゃないですか。
十万円くらいもらえるんだったら、生きた動物としないではないが、百万円もらえても、屍姦はしたくない。一千万円もらえるんだったら少し迷うが、いざやろうとしても勃起しないので、どうせ金はもらえない。だったら、最初から断るのが賢明。犬や山羊でも同じなので、そっちも断ることにしよう。そんな話はどこからも来ないので、悩む必要もないが。
しかし、生まれて初めて、屍姦する人の気持ちがちょっとだけわかった雑誌記事がある。
名古屋に「車窓読物」(関西通信社)という雑誌があった。この別冊として出たのが「風の風来坊」。しかし、すぐに本体の「車窓読物」は出なくなって、「旅の風来坊」に改題ということになったよう。私も全部は持っていないので、詳しいことはわからないが、「風の風来坊」は年に数冊出るだけ。おそらく他に発行物があって、その片手間に出していたものなのだろう。
タイトル通り、旅の雑誌なのだが、エロにからめた旅行記事がいっぱい出ている。温泉で知り合った女と一夜を共にしたり、旅先で知り合った地元の女が夜這いをしてきたり、といった体験談や、風俗ガイド記事が出ている。いわば「旅とエロ」がテーマである。また、地元愛知県の古い猟奇記事を紹介していたりもする。
そんな雑誌なのに、丸栄や松坂屋といった百貨店、名鉄、近鉄などの私鉄、各地域の観光協会、温泉旅館などが広告を出していて、広告は大変充実している。この頃は「宣伝効果があればいい」ってことで、「エロ記事が出ているから広告を出さない」なんてケツの穴の小さいことは言わなかったのだろう。
幸せの絶頂から失意のどん底へ
問題の記事は昭和三二年五月に発行された「旅の風来坊」29号に掲載されていた。この号でも、地元の猟奇事件が二本取り上げられていて、その一本は山田素川「実話怪奇 八十翁の情痴」は愛知県犬山市で起きた実話である。刑事事件になったわけではないが、当時、犬山では有名だった話らしい。
名前は伏せてあるが、愛知県知多出身の代議士が主人公。もともと豪商の出で、金はあり、あとは名誉だというので、潤沢な資金を使って買収しまくって、選挙に当選を果たす。
夢を叶えて老後はのんびり過ごそうと、太平洋戦争末期に犬山に引っ越してきて豪邸を建てた。七十代になるまで未婚だったのだが、犬山で三十代の女性と知り合って結婚。彼女は師範学校を出て教師をやっていたインテリの美人なのだが、彼女もこれが初婚であった
晩年の結婚だったため、老爺は妻を溺愛。戦争も終わって、この歳で子どもできた、老爺は人生最大の幸せを味わう。
しかし、妻は病弱であった。それが遺伝したのか、子ども体が弱く、生まれてから一年で亡くなってしまう。これで母親は半狂乱となって、彼女も病に伏して間もなく亡くなった。
この時老爺は八十歳。子どもと妻を続けて失って、人生最大の幸せから、人生最大の失意のどん底に。
(残り 775文字/全文: 3063文字)
この記事の続きは会員限定です。入会をご検討の方は「ウェブマガジンのご案内」をクリックして内容をご確認ください。
ユーザー登録と購読手続が完了するとお読みいただけます。
会員の方は、ログインしてください。
外部サービスアカウントでログイン
Twitterログイン機能終了のお知らせ
Facebookログイン機能終了のお知らせ