姓より名・家より個人—女言葉の一世紀 20-(松沢呉一) -2,388文字-
「夫を主人と呼びたい女たち—女言葉の一世紀 19」の続きです。
夫を姓で呼ぶ
『新らしい女子礼法の手引』では「主人」とともに、「安倍が〜」(原文は松井)といったように、第三者に対して、夫を苗字で呼ぶことを推奨しています。
今もこういう言い方をする人はいますね。「吉川がよろしくと申しておりました」と言われると、「あんたも吉川だろ」と言いたくなってしまいます。結婚前から彼女のことを知っている場合は旧姓で認知しているので、吉川は夫のことだとスムーズに理解できるとして。
こういう言い方をする夫婦では、第三者に夫が妻のことを言う時は、下の名前になりましょう。「昭恵がよろしくと申してました」となる(晋三・昭恵のところは、晋三が「妻」と呼び、昭恵が「主人」と呼んでますが、昭恵は「安倍」という言い方もたまにしています。「安倍の母」といったように家を強調する場合かと思います)。
つまりは家、家族、家系を代表するのは男であり、女は添え物とも言えますが、考えようによっては家に縛られているのは男、女は個人として認識されるってことでもあります。
これに対して、もう六著『宿六と山の神』では、おさつが第三者に夫の名前を出したことはなかったかもしれないですが、夫は第三者に妻のことを「おさつ」と名前で呼び、第三者も「勘さん」「おさつさん」と名前に基づいた呼称を使用しています。ここでもバランスがとれています。
ここで注目すべきは、この本には主人公夫婦の姓が出てこなかったことです。見逃しただけかもしれないですが、出てきたとしてもサラリとであって、重視はされていない。
最初に主人公夫婦の隣に住んでいた夫婦も「金造」「お萩」として登場し、おそらく苗字は一度も出てきていないと思います。お萩は「嚊左衛門のお萩」という説明もあって、「嚊左衛門」は嚊天下の夫婦の妻を意味する言葉。金造は銀細工職人ですが、片足がなく、松葉杖を使っているため、お萩に頼らざるを得ない。そういう夫婦において夫の姓なんざなんの意味もないと考えれば理にかなっています。
※『新らしい女子礼法の手引』に出ていた図。道に落ちていた十円玉を見ているのではなく、正しいお辞儀の仕方。
姓より名前が長屋の流儀
姓を重視しないのは、姓がなかった、あるいはあっても一部の商人以外積極的に名乗ることのなかった江戸時代の庶民からの流れです。「平民苗字必称義務令」が出て以降も、名乗る必然性がない人々は今までと一緒だったのでありましょうし、姓より個人を重視したのだろうと思います。
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