松沢呉一のビバノン・ライフ

雨宮まみの文章を読まなくなったきっかけ—「女子」の用法 予告編- (松沢呉一) -2,938文字-

 

なんでも差別に見える人たち

 

vivanon_sentence安倍昭恵について、「安倍首相は妻をちゃんと管理せよ」と主張することは「性差別だ」とかなんとか言っているのがいますね。性差別という言葉をはっきり使っていたのかどうか忘れましたが、そういう文意です。「なぜ妻の行動を夫が管理し、その責任をとらなければならないのか。妻も自立した人間として扱え」とでも言いたいのでしょう。アホらしくて脱力します。

そのようなTwitterのツイートがFacebookに流れていました。私は原則Twitterからの自動転載には反応をしないことにしています。「いいね!」もつけない。反応する場合は、元ネタまで辿ってからにします。そこまでする気がない場合には反応しない方針のため、この時もスルーしてしまいましたが、差別でもなんでもないことが差別という構図に見えてしまう人たちが存在します。

以下についてはざっくりFacebookで説明をしていますが、この場合は妻を管理できない点において安倍晋三を批判するのは当然であり、その責任も安倍晋三が負うしかない。

首相の妻という地位を担保しているのは、婚姻の契約のみです。選挙で選ばれたわけではなく、国家試験をクリアしたわけでもない。

昭恵を指名したのは晋三であり、親の口出しもあったかもしれないけれど、それもまた首相たる安倍晋三の責任。「信任なき権力者」「責任なき権力者」「制限なき権力者」である安倍昭恵を成立させているのは、安倍晋三との合意のみです。

「首相の妻」という存在を規定する法律もほぼない上に、どうやら昭恵は人としても責任をとる意思や能力が欠落している無責任な無能者のようです。となると、安倍晋三がすべての責任を負うことになる。「妻は妻であり、私は知りませんでした」では済まないのです。知らないこと自体が自分の責任。

写真は2015年の東京レインボープライドでフロートに乗る安倍昭恵。

 

 

責任をとるべき首相に責任をとらせるのは当たり前

 

vivanon_sentence首相が女だった場合でも同じです。配偶者に関する規定がない以上、「首相の夫」という地位を利用した不適切な行動は首相の責任ですから、「ちゃんと夫を管理せよ」となるのは当然じゃないですか。性別に関係はない。

たとえば稲田朋美の夫が、弁護士として不適切なことをやった場合は、法による処分、弁護士会による処分を受ければいい。しかし、防衛大臣の夫として不適切なことをやった場合は、稲田朋美が責任をとるしかないのだから、防衛大臣の配偶者としての夫の行動は防衛大臣が管理するのは当たり前。すべての行動を把握することは難しいとなれば、「防衛大臣の夫」と名乗る行動、そう見なされる行動は控えるように夫を指導し、教育するしかない。それは稲田朋美の仕事。

配偶者だからと言って自由を制限されるわけではなくて、なんの信任もないまま、慣例として特権を得て、権力性を帯びるのですから、「政治家の配偶者」という側面が制限されるのは当たり前であり、それを抑制するのは自身であり、それができない場合は配偶者である政治家がやるしかない。

「安倍首相は妻をちゃんと管理せよ」「安倍首相は責任をとれ」と言っている人たちの中には、「昭恵の権力は一体何を根拠にしたもなのか」「その根拠において責任所在はどこにあるのか」までを考えてそう言っているのではなくて、ただ「妻は夫が管理するのが当たり前。妻の不始末は夫の責任」という考えからそう言っているに過ぎない人がいるかもしれないけれど、そう判断できるもののみをそう判断して批判するしかなく、昭恵の責任を夫に求めている人たちをそれだけでは批判できないのです。

こんなシンプルかつ当たり前のことさえ性差別に見える人たちは「自分が差別だと思える事象は差別ではない可能性がある」と認識して、せめて一時間は検討をしてから発言した方がいいと思います。

※写真は東京レインボープライドに来ていた谷査恵子「秘書」。今の今まで気づいていなかったのですが、よくよく見たら、谷さんの写真も撮っていたことが判明。職務中の公務員ですから、肖像権はなしってことで。ここまでの文章はこの写真を出すために書いたようなものです。彼女個人を責める意図などまったくなくて、ただ出したかっただけ。

 

 

雨宮まみの弱点

 

vivanon_sentenceで、雨宮まみですけど、「狂乱の一夜に聞いた雨宮まみの訃報」に書いたように、私は彼女が亡くなった時に、感慨らしい感慨が出てきませんでした。人としての接点はほとんどないため、その表現物によって死の意味が変わってきてしまうわけですが、彼女の文章に私は興味がなかったのです。

それでも面識はあるし、私の本を多数出していたポット出版のサイトで書いていたため、当初は読んでいて、共感できる文章もあったのですが、読み進んでいくうちに、興味を失いました。

自分の経験、自分の内面を書いている分にはよかったのですが、調べるべき文章、理詰めで書くべき文章では粗が出てしまって、読むのが辛くなる。熟考を経ない凡庸な思いつきをそのまま書いてしまって、彼女もやはり私にとっては「あと一時間検討してから発言した方がいい」というタイプでした。

この決定的な契機になったのは、次回から循環する文章で取り上げているネットの文章です。これを最後に、以降は一切読まなくなったのだと記憶します。どっちみちどこかでそうなっていたと思いますが。

今回循環させるのはわざわざ「雨宮まみの文章のどこがまずかったのか」を説明したいのではなくて、それを契機にして、「男子」「女子」という言葉の用法を説明するための文章です。

それを「ビバノン」で再度出そうと思ったのは「女言葉の一世紀」とも関わって来る内容だからです。「女」「女性」「女子」「婦人」という言葉がどう使用されてきたのか。「フェミニズムはなぜ女性運動や女子運動ではなく、婦人運動と訳されたのか」「なぜ女性誌はかつて婦人雑誌だったのか」などなど。

 

 

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