婚姻外セックスの否定としての売買春否定—兼松左知子著『閉じられた履歴書』のデタラメ 11-[ビバノン循環湯 257] (松沢呉一) -5,621文字-
「愛のないセックスを否定する宗教的道徳心が動機—兼松左知子著『閉じられた履歴書』のデタラメ 10」の続きです。
婚姻外セックスを禁止したいのが兼松左知子の本音
女子大生のともみも「売春もどき」の幸子と同様、不特定多数の相手とホテルに行っており、大変充実したセックスライフを送っている。
ホテルに行った男たちのうち何人もの人が、
「このまま、あなたとつきあってゆきたい」
と、口にしたが、彼女はうす笑いを浮かべたまま、頭を横にふったという。
ともみ自身が「私はうす笑いを浮かべて〜」と語ったとは思いにくいので、この表現もまた兼松さんの脚色と想像でき、たぶん彼女は明るく微笑んで断ったに違いない。
他人が書いたものを読んでいると、「その場にいたわけでもないのに、どうしてそんなことまでわかるんだよ」「本人に話を聞けているわけでもにないのに、どうして内面までわかるんだよ」という表現が出てくることがあって、私は「噓くせえ」と思ってしまう。
それでもライターだったら許容範囲かと思うけれど、兼松左知子は、ライターではなく、小説家でもない。半ば公的な婦人相談員という立場にあって、その記録が本書のはず。そこでは慎重さ、正確さ、公平さが求められ、このような脚色は避けてしかるべきだが、本書ではあらゆる点で脚色、誇張によって著者の道徳が反映されている。
私自身、話を聞ききれなかったところでは推測を交えることがあるし、そういった文章を本人に見せて承諾してもらうことはあっていいと思うが、兼松さんがこの本を、すべての発言者に承諾してもらっているとは思いにくい。兼松さんは平気で噓をつける人間なのだろう。
私が同じともみに取材したとしたら、まったく別の印象の文章になるはずだ。この兼松さんの文章の範囲でさえ、ともみは自立した性を享受できている素晴らしい女性であることがわかる。薄笑いを浮かべながら、こんな文章を作り上げるのが、兼松さんという人である(ここは私も脚色してみました。違うというなら、ここもメモを公表してください)。
たった一度の外泊で相談所に娘を連れてくる母親
では、こづかいをもらうことくらいはあるらしい彼女がどうして相談所に来たかというと、クリスマスの日に友人のパーティに行って外泊したために、親が心配して彼女を相談所に連れてきたという。たった一日の外泊で。ともみは二十歳なんですよ!
叱るべきは、この母親だ。
母親の異常性に触れることなく、兼松さんはこうまとめている。
日頃、たいした希望もなく、生活の張りもなく、刺激とやすらぎと、非日常的な世界を求めてそれだけが楽しみ、という人たち。このような人たちの行為は今すぐ、売春とは名付けられないかもしれない。自分から相手に金を請求し、これは金になるから−−と売春するのではない。男たちから声をかけられ、人恋しさから、売春もどきの行為に入るのである。ここに、性の無機化が進行している今日の都会の姿がある。
なるほど、こんなことを書く兼松さんが、母親の異常性に気づけるはずがなかった。
どこをどう読んでみても、ともみは、ここにある兼松さんの解釈にあてはまりそうにない。彼女は漫然と大学に通うことよりも、よりはっきりとした目標を実現するために専門学校に行きたいと思っている。立派な心掛けの娘さんである。
そして、セックスが好きなんだろう。一人の相手よりもたくさんの相手とするセックスが、である。
こんな彼女だから、友達とパーティをやるのも楽しいし、将来の夢を追うのも楽しいし、セックスをするのも楽しいってことだ。
それをまあ兼松さんたら。人をバカにすることくらいしか刺激も楽しみもやすらぎもないのか。なんてことを勝手に書かれたら、兼松さんのような鈍感な人だって、さすがに腹が立つんじゃないのか。しかし、この人は何十年間も、そんなことをやり続けているのだ。いくらそれでメシが食えるのだとしても、どれだけ淋しい人生か。
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