松沢呉一のビバノン・ライフ

旧民法と結婚の意思—高井としを著『わたしの「女工哀史」』のもやもや 20-(松沢呉一) -3,072文字-

貧乏バイアスを利用—高井としを著『わたしの「女工哀史」』のもやもや 19」の続きです。

 

 

 

積極的に結婚しようとはしていなかった

 

vivanon_sentence「合作・共作」論は最初からお話にならないとして、「としをが経済的に生活を支えてきたから細井和喜蔵は『女工哀史』を世に出せた」という話もいくらか怪しくなってきました。

としをがそう見せかけようとしているほど経済的に依存していたわけではなくても、二人は共同生活をしていて、精神的なサポートもしてきたことには違いがないのだから、その恩恵を受けていいという主張はなおありましょう。

婚姻届を出していたら、その関係の密度、内容を問われることなく、権利を継承できたのだから、としをもその関係如何を問わずに権利を継承できていたはず。しかし、婚姻届けが出せなかった、それは婦人の権利が認められていなかったためというのがとしをやそれを支持する人たちの主張です。

としをは印税を打ち切られた話のあとでこう書いています。

 

 

こんな話をいまさら何でするのかというと、今の若い方にはわからないかも知れませんが、旧民法では戸主が許可しないと結婚届はだせません。定職もなく、左翼の売れない原稿を書いている細井との結婚などは戸主である私の父には絶対ゆるしてもらえないし、また、私たちは思想が同じで愛情さえあればよいと思い、女工の実態を何とか世に訴えたいと、一つの目的に結ばれてともに努力していたので、内縁の妻などということは、気にもかけていなかったのです。

 

 

そう、さして気にかけていなかったのです。それは和喜蔵も同じだったろうと思います。

※亀戸から見た雨のスカイツリー

 

 

としをと父の関係

 

vivanon_sentence父親が反対しているのがどの程度のことなのかもはっきり書かれていません。参考になるのは以下の記述です。

 

ここまでくる間に私が名古屋の父の家へたちよらなかったのは、和喜蔵のことを三文文士といって、私たちの結婚に反対されたので、悔しくて負けん気の強い私はたずねなかったのでした。

 

ここまでくる間」というのは、関東大震災のあと、としをと和喜蔵が東京を離れて兵庫県に落ち着くまでのこと。名古屋を素通りして、岐阜の生家に行っています。二人が同棲を始めてから、おそらくとしをは一度も父親に会っておらず、もちろん、和喜蔵も同様。

つまり、はっきりと父親に談判しているのではなくて、手紙で認めないと言われたのか、それさえも言われていなかったのではなかろうか。

名古屋を素通りして岐阜に行ったのも、本当にそれが理由だったのかどうかわかりません。としをが十七歳の時は母が死亡しており、そのすぐあとで若い女が家に来て、再婚。その新しい母は二十二歳。としをは気詰まりで家を出て名古屋に行き、豊田織機で働いています。

年齢が五歳しか違わないことの抵抗感を書いていますが、母が亡くなったすぐあとに再婚したことについてはとくに何も書いていません。書けないでしょう。数年後に自分も同じようなことをやったんだから。

※亀戸天神の藤棚。すでに終わりかけ。

 

 

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