松沢呉一のビバノン・ライフ

履歴書を閉じようとしたのは兼松左知子自身であった—兼松左知子著『閉じられた履歴書』のデタラメ 13(最終回)-[ビバノン循環湯 260] (松沢呉一) -7,355文字-

データが物語る虚偽と詐術—兼松左知子著『閉じられた履歴書』のデタラメ 12」の続きです。「セックスワーカーの人権侵害をする女たち」と内容が重複してますが、こちらがオリジナル。あちらでは本のタイトルやいのうえせつこという名前を伏せてますが、こっちでは名前を出しています。そのまま出しておきます。

 

 

 

写真を無修正で無断掲載するライター

 

vivanon_sentenceいのうえせつこというライターがいる。彼女の著書『買春する男たち』(1996・新評社)では、露骨な売買春否定は書いていないが、この著書は彼女の意識を如実に表現している。

この本には、「日刊ゲンダイ」の新聞広告やピンクチラシがそのまま転載されている。新聞広告のキャプションにはご丁寧にも「売春広告」とつけられているが、ここに出ている広告はすべてピンサロである。

広告に出ている女たちのうち、顔の全体がはっきりと見ることができるのは九名いる。このうちの何人かは、首都圏でしか売られず、ほぼ男しか見ず、しかも、ほとんどの場合は数時間から長くて半日程度で捨てられ、自宅には持ち帰らないことが多く、長期保存もされにくい夕刊紙の広告だから、顔出しを承諾しているはずである。全国紙であれば断り、路上の看板でも断るのもこの中にはいるはずだ。

買春する男たちそれをそのまま転載する神経がわからない。この本は全国で売られる。現に、発売から三年近くになる現在も書店に並んでいる。図書館にも入っていることもあるだろうし、「日刊ゲンダイ」など決して見ない主婦層が目にすることもあろう。そしてキャプションには実際にやっていることと無関係の「売春」の文字。

風景として路上に出された看板をそのまま出すのはありとして、広告やチラシの類いをそのまま転載することには肖像権上大いに問題があるのだが、肖像権など持ち出さなくても配慮すべきだろう。著者も出版社も、性労働者には生活権も肖像権もありはしないとでも思っているのだろう。

風俗情報誌でもエロ本でもそうだが、どんな雑誌の取材か店は女たちに説明し、本人の意向も確認して、メディアによっては顔を隠したり、目隠しをしたり、髪形を変えたり、ホクロなどの特徴を消すなどして、家族や知人にバレないような工夫をする。また、出身地や年齢を変えるなどして、万が一、バレた時に言い逃れできるようにもする。

うっかりのミスはあるのだが、あくまでそれは意図しない事故である。

日刊ゲンダイ」の広告もすでに処理してある可能性があるが、していない可能性もあるのだから、こういう場合は目線くらい入れるってもんだ。

エロ雑誌関係者も風俗店も、いのうえさんより遥かに働く者たちに配慮しているものである。人権を語るフリをして売買春で本を出して稼ぎたいのだろう。本音を言えば、働いている側の人権などどうでもいい。そう思っているのでなければ、新聞広告をそのまま転載できるはずがない。

最近、エロ系のムックを見ていたら、ピンクチラシが紹介されていて、そのひとつひとつに目線が入れられていた。ああいったピンクチラシは雑誌の写真を無断使用していることが多いため、それ自体、著作権侵害、肖像権侵害の代物であり、それを複写すると、複写した側もそれらの権利を侵害する。

また、オリジナルの写真はしばしば雑誌に掲載された写真だったりするため、転載すると、やはり見られなくていい人にまで見られることになる。他者の写真を無断で使用することそのものの権利侵害だけじゃなく、具体的損害を生じさせかねないという意味で、それをメディアが複写して掲載する場合は二重の配慮が必要なはずだ。ところが、いのうえさんは、ピンクチラシも目線を入れずに転載している。

むしろ、ここでは「こういう仕事をしている女たちは制裁されてもいいのだ」との意識が働いていそうに思う。ピンサロで働いて顔を出しているような女たちは売春をしているに等しく、制裁されるべきであるとの意識だ。道徳からはみ出した女を制裁するのはしばしば女である。

 

※路上の看板やAVのパッケージ、雑誌の表紙は、広く見られてしまうことまで合意していると推測でき、また、それらに使用された写真は修正済みが多いため、そのまま出してもいいとも思います。修正してなくても、思い切りメイクしてますしね。それでも性風俗店の看板については「ビバノン」では顔を消していることがあります。たとえばこれとか。辞めたあとに店が勝手に出していることがあるので。AVのパッケージも、広く見られるはずのないジャンルについては消しています。これとか。「タグマ!」に基準があるわけではなく、誰に言われたわけでもなく、自然とそういうことをするってもんじゃないんかと。

 

 

少しはマシな婦人相談員もいないわけではない

 

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いのうえさんの名誉のために言っておくと、『買春する男たち』は、類書の中では、最もまともな部類に属するものだ(それでもこの程度ということですけど)。彼女は風俗店の経営者なにどにも取材し、時にはその言葉に同調さえしている。本のラスト近くで、彼女はこう書いている。

 

 

(この本を)書きあげて、私が変わったことは、「買春はダメ!」と言っているだけでは、売買春を社会構造の中に深く取り込んでいる現実を変えることはできない、と思うようになったことである。

 

 

この考えに全面的に同意するわけではないが、もし売春を続けざるを得ないこの社会の矛盾を解消できないと考えるのであれば、まだしも、売春を肯定した上で、よりよい労働環境を作り出すのが、彼女らのためなのである。病気や妊娠、悪質店に関する情報を流し、自分を防御する指導を婦人相談所ができればいいのだろうが、婦人相談所の存在意義は「転落の未然防止と保護厚生」だから、そういうわけにもいかない。

これは兼松さん個人の問題ではなく、婦人相談所の在り方の問題になるが、「売春はいけない」という前提でしか対応できないのであれば、救われる者が救われなくなることだってあり得るだろう。

やはり婦人相談員である、いしもとむねこさんはこう書いている。

 

 

性を売る女性たちと出会うたびに、「売春をやめよう」と問いかける。それぞれの事情によって、この機会にやめる女性もいれば、やめられずに再び街の中に消えていく女性もいる。自己破産できない多額の借金の問題、孤独感から相手を求める売春など、ほとんど解決の方法が見当たらない。私たちの力ではその女性の抱えている問題を効果的に解決できないとき、そんなときは辛い。

一方、私は、なぜ性を売ってはいけないのか、という質問にぶつかりうろたえる。「買うも、売るも、性を商品化し、他の性を支配したり、所有したり、征服したりすることは、人間としての尊厳を傷つける行為だから、してはいけないよ」という思いを、目の前の女性の立場で説明する言葉、相手の状況に合わせて実感に訴える言葉が見つからない。

性を売っている女性たちは、恥ずかしい、身近な人には言えないこと、という意識をもっている。この意識自体は性の二重基準の刷り込みから来ているのだが、かつてこの「恥ずかしい」という意識に訴えて目の前の女性を追い詰めてしまったことがある。自分を否定的にとらえている彼女たちに、「自分の性と生を大切にしてほしい」というメッセージを送りたいと思っていたのに、ますます自己を否定する方向に追いやり、傷つけてしまった。

あごら」191号(BOC出版部/1993)掲載「私が出会った性を売る女たち」より

 

 

婦人相談員のくせして、正直である。彼女のような正直な婦人相談員じゃなければ、「買うも、売るも、性を商品化し、他の性を支配したり、所有したり、征服したりたりすることは、人間としての尊厳を傷つける行為だから、してはいけないよ」と言ってしまうだけだろう。

兼松さんと違い、彼女は現実から学習する能力があるためにそうは言えなくなってしまっているわけだが、しかし、もしこの人が、場合によっては性労働を肯定してやることができたなら、より現実的な対応ができるのに、と惜しく思う。

例えば、いしもとさんが書くような、多額の借金を抱えて、あとは一家心中するしかないような女性が、ひどい労働環境で働かされている時に、「仕事を辞めなさい」というのは「一家で死ね!」というに等しい。

その時に、より安全で快適な労働環境の職場を紹介できれば、彼女の負担は大幅に減じる。よりよい労働条件を実現している店に働く者が集まれば、多くの店が労働条件を改善し、労働環境の充実を図ろうとするのだから、全体の労働環境が向上していく。

その一方で、労働環境が悪い店を指導できる権限をも婦人相談所に与えるようにすれば、いよいよ労働環境は向上することになる。性労働の非犯罪化というのは、こういうことを実現するための要求であり、売防法に基づいた婦人相談所では不可能であり、自分らの延命に躍起な婦人相談員たちは、これと逆行していくだけだ。

 

 

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