松沢呉一のビバノン・ライフ

胃で話す人たち—オランダに学ぶ 3(最終回)-[ビバノン循環湯 265] (松沢呉一) -3,894文字-

日本のセックス表現が暴力的に見えるわけ—オランダに学ぶ 2」の続きです。

冒頭に書いたように、これは10年以上前の話。正確には15年くらい前かと思います。それを踏まえてお読みください。

 

 

 

『売る売らない』を評価したのはオランダ人だった

 

vivanon_sentenceテレビのコーディネイトをしていたオランダ人の社会学者とは、以前、来日している時に一度会ったことがあり、そのあと、日本の大学に研究者として赴任。その時に、彼は連絡をくれて、彼の論文用に話を聞かせて欲しいとのことでまた会いました。

彼は『売る売らないはワタシが決める』と『ワタシが決めた』を高く評価してくれていて、「どうしてあの二冊の本は無視されているのか」と嘆いていました。

名のある人たちではないにせよ、評価してくれている人たちもいっぱいいるので、無視されてはいないですけど、アカデミズムやらメディアからの反応は決して多くなくて、外から見ると、とくに話題にもなっていないように感じられましょうし、現に意味のある議論も起きてないですから、その点では無視されていると言っていいのかもしれない。

あの本で貫かれているのは、個人主義に基づく自己決定の論です。オランダ人にもいろいろいるでしょうが、彼はスムーズに理解できたよう。

「議論になったところで、“誰が何と言おうと、オレは妻や娘が売春するのは許さん”なんてことを恥ずかしげもなく言ってのけるのがゴロゴロいる。これがこの国の現状だから、頭が痛い」

私がそう言ったところ、彼もまた日本のその現実をすでに理解していて、いい言葉を教えてくれました。

「オランダでは、そういう発言を“胃で話す”と言う」

頭を使わず、感覚、感情だけで物を言うことを軽蔑した表現だそうです。わかりやすいですね。

たとえば狂牛病の問題を論じている場で、「誰が何と言っても、僕は焼き肉が好きだから、食べ続けるもん」と言い出すのが「胃で話す」。これに対しては「はいはい、お父さんやお母さんが心配しているから、ボクちゃんはさっさとうちに帰って宿題をやりましょうね」と言うしかない。原因は何なのか、今現在危険はあるのか、どうすればその危険を回避できるのか、どうすれば解決が可能なのかといった問題を論ずる場で、個人の胃の趣味・嗜好を持ち出されてもねえ。

逆に、「僕は牛肉が好きではないので、どうでもいい」という姿勢も同じです。これは「自分の趣味」を吐露する場ではなく、社会の問題を論ずる場です。関心を抱くかどうかと個人の趣味は関わることがありましょうが、どうでもいいなら黙っていればいい。「私をわかって」「私にかまって」アピールはいらん。邪魔なだけ。

たったこれだけのことがわからない人たちがいかに多いか。「胃」で話しすぎ。

Pieter Claesz「Still Life with a Skull and a Writing Quill」

 

 

個人の感情と社会規範の区別ができない人々

 

vivanon_sentence売る売らないはワタシが決める』の座談会で語っているように、個々人が家族に対して何を求めるのかの「希望」を刑事罰化しなければならないのであれば、「私は妻の不倫を許さない」という人は姦通罪の復活を求めることになります。事実、この国では戦争に負けるまで、姦通罪が存在していたのは、そういう人たちが多かったからなのでしょう。「占領軍に押しつけられた」とでも思っていて、なぜ姦通罪が不要なのか理解できていない人がいっぱいいるのかもしれない。

「私は妻がよその男とセックスしてもかまわない」という人たちもいるわけですが、そういう他者の存在を認められない人たちですし、妻の意思も認められず、その「胃」を法律に直結させてしまいます。

さまざまな価値観を持つ人たちが共存する社会にするには、法で処罰するのではなく、あとは個人がそれを実践すればよく、個人対個人の約束を問うていけばいい。「おまえは不倫をするなよ」「あんたもね」と約束をし、それが裏切られたら訴えればいい。つまりは民事の問題。

 

 

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